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経済ジャーナリスト 片山修 | Osamu Katayama Official Website

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全米一の新聞への道――エドワード・E・シャーフ『ウォールストリートジャーナル』講談社

<現代マスコミ界の‶奇跡〟>

『ウォールストリート・ジャーナル』といえば、国際派ビジネスマンの必読紙である。商社マンや証券マンを取材したときなど、「そう、この前『ウォールストリート・ジャーナル』にも出ていたんですが……」と枕詞をふって、話を切り出す者に少なからず出くわしたものだ。

「あの『ウォールストリート・ジャーナル』にも、ときに誤植があるんですね。せんだって、読んでいて僕はみつけたんですよ。びっくりしました」そういって、いかにも自慢げに話した商社マンもいた。

それほど、『ウォールストリート・ジャーナル』に対するビジネスマンの評価は高いということである。

昔は、たしか、東京にはニューヨークから1日遅れて届いていたが、いまは香港で編集され、日経で印刷されたアジア版の『ウォールストリート・ジャーナル』が、半日遅れで届くようになっている。ちなみに、同紙はヨーロッパ版も発行している。

『ウォールストリート・ジャーナル』は、このように全米はもとより、アジアやヨーロッパまで広く読まれている。これは、現代マスコミ界の〝奇跡〟とまでいわれているのだ。

なぜか。

エドワード・E・シャーフは、著書『ウォールストリート・ジャーナル』(講談社刊、笹野洋子訳)の中で、こう記している。

「世をあげて映像の時代というのに、全米最大の発行部数を誇る日刊紙が、写真も載せず単調で地味な紙面づくりをしているということは、少々奇異に感じられるかもしれない。なにしろ、見たところ19世紀に後戻りしたかのような新聞で、スポーツや血なまぐさい犯罪記事をはじめ、ふつうのマスコミで取り上げるような話題はほとんど載せないのだ」

ところが、週5日発行で、1985年における発行部数は約200万部を誇り、アメリカでも「いやしくも実業界・政界に身を置く者で、この新聞を読んでいないということなど考えられない、という新聞が『ジャーナル』」なのである。

戦後のアメリカの新聞界で、最高の成功をおさめたのは『ウォールストリート・ジャーナル』といわれる所以だ。ただ、同紙が今後もクオリティペーパーとして存在し、高い評価を受けつづけたとしても、現代のメディア戦争の中ではたして〝勝者〟として生きつづけられるかどうかということになると、疑問だと私は思う。

<野心に燃えた、若者ふたりが創刊>

さて『ウォールストリート・ジャーナル』も、誕生したころは、ゴロつき新聞に毛のはえたような新聞だった。

1890年、ニューイングランドからウォール街にやってきた、やる気満々の2人の若い記者がいた。29歳のチャールズ・ダウと、25歳のエドワード・ジョーンズである。2人は、気さくなアイルランド人のジョン・カーナンがはじめたウォール街の通信社に勤めた。通信社といっても、入港する蒸気船から情報を集めては、それをメッセンジャー・ボーイを使って、ウォール街の契約者たちのもとに届けるというのが、仕事の内容だった。

勤めて1年目の1882年に、ダウとジョーンズは、「われわれも同じようなニュース・サービス業をはじめようではないか」と思い立った。2人は、ダウジョーンズ社を創立し、ニュースレターの発行を開始し、89年には、ニュースレターの名前を『ウォールストリート・ジャーナル』と変えた。大きさは縦53センチ、横39センチ、4ページの新聞で、1部2セントだった。

ただ、当初は、新聞の発行は副業にすぎなかった。ダウジョーンズ社は、抜群の速さでニュース速報を出し、かつその情報がすぐれて信頼のおけるものだったことによって、大繁盛したのである。

ご存じのように、ダウジョーンズ平均、あるいはダウ式平均株価といえば、ダウジョーンズ社が毎日発表するニューヨーク株式市場の平均株価のことだ。工業株30種、鉄道株20種、公共株15種およびこれらの総合65種、計4種類ある。数ある平均株価の中でも、ダウ平均株価はもっとも権威のある株式指数とされている。これは、ダウの業績のうちもっとも長く後の世まで残ったものである。

しかしながら、『ウォールストリート・ジャーナル』は、ウォール街の一業界紙の域をなかなか出なかった。一時は、ウォールストリートという名前が悪いので、紙名を変えようかと、経営者が真剣に考えたこともあったという。

<一流紙にのし上がるまでのサクセスストーリー>

エドワード・E・シャーフの著書『ウォールストリートジャーナル』は、そのような半分つぶれかかったウォール街の業界紙が、第2次世界大戦後、いかにして全米一の格式と部数を誇るエリート新聞にのし上がっていったか、というサクセスストーリーをみごとに描き出している。

たとえば、『ウォールストリート・ジャーナル』を育て上げた最大の功労者は、大恐慌の最中に入社したバーナード・キルゴアだという。

キルゴアは、1941年に編集局長になると、①ひたすら平易な記事づくりを目指す②証券界の業界紙を脱皮して、これからは生活費を稼ぐこと、カネを使うことに関する問題ならなんでも扱うようにする③全国紙を目指す④1面の記事は、読者が『ヘラルド・トリビューン』や『タイムズ』の1面で読みなれたものとはまったく異なる独特のものにする――という目標を掲げた。

この編集方針が、大いに当たった。これを機に、『ウォールストリート・ジャーナル』は、一流紙への階段を着実にのぼりはじめたというのだ。

キルゴアと並んで、もうひとりの功労者は宣伝の天才で、嫌われ者だったロバート・フィームスターである。彼は情熱と大ボラで、『ウォールストリート・ジャーナル』を強引に売り込んで歩いたという。

<金融情報戦争、サバイバルへの課題>

ただ、私が同著を読んでつくづく感じることは、『ウォールストリート・ジャーナル』はあくまでも活字媒体であるということだ。

いまウォール街は、大きく変化している。コンピュータ、通信技術の発達などによって、世界各国で同時的に金融革命が進行している。その中で、国際資本は24時間眠ることなく、世界の金融マーケットをかけめぐっているのである。

この地球時代の金融・資本市場の大変革を受けて、証券会社もまたダイナミックに変貌している。とにかく、野村証券を1日に通過していくおカネが6兆円というのだから、驚くばかりである。私はよくいっているのだが、野村証券はもはや単なる株屋ではなく、巨大で、世界的な総合金融サービス会社である。

地球経済を運営するにあたって、今日ほど金融・資本市場の役割が問われている時代はない。そのときにあって、かりに『ウォールストリート・ジャーナル』が、キルゴア時代とさして変わらぬ紙面であるとしたら、どういうことになるだろうか。

株も証券もいまや世界的規模で商いが行われている。たとえば、公社債市場で1つの新しい金融商品をつくるのにも、国内債のみならずドル債を組み合わせたり、為替の変化を入れてコストダウンを図ったりする。ちょうど、受験時代にやったΣ(シグマ)の世界だ。

トレーディングにしても、そうである。トレーダーは、4、5台の小型テレビスクリーンをみながら、ニューヨークやロンドンなどと売り買いをする。

つまり、超大型のコンピュータと接続して、テレコム通信ネットワークを利用し、世界中の情報を1秒でも早く大量かつ正確にキャッチする。そして、地球上の時差を利用して、通貨変動や金利変動を乗り切り、瞬時の判断で利ザヤを稼ぐのである。このやりとりは、すべて電話で行われる。

いまの金融・資本市場が〝みえないマーケット〟〝テレフォンマーケット〟といわれるのは、そのあたりの事情を指している。

そのテレフォンマーケットの仲介役をしているのが、通信社のモニターである。その最大手が、ロイターのモニターだ。現在、世界109カ国、7万5000台の端末機が活動している。むろん、世界一の規模である。第2は、AP、ダウジョーンズ、〝テレレート〟と呼ばれるモニターだ。現在、アメリカで4万台の端末機が設置されている。

ちなみに、東京では、ロイターのモニターの端末機が3000台、テレレートのそれが1000台設置されている。

「明らかに、ダウジョーンズ社は、金融情報戦争において、ロイターの後塵を拝していますね」

証券経営コンサルタント・佐山雅致氏は、そう述べるのである。

『ウォールストリート・ジャーナル』の中興の祖ともいうべきキルゴアは、「新聞にも固有のライフサイクルがあり、新聞も生まれ、成長し、死んでいく」という言葉を吐いているというが、私は、エドワード・E・シャーフの著作を読みながら、あらためて金融界を襲う巨大なトレンドを考えないではいられなかった。

エドワード・E・シャーフ・笹野洋子訳『ウォールストリートジャーナル』
『IMRESSION』(1987年3月号掲載)

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