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経済ジャーナリスト 片山修 | Osamu Katayama Official Website

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壮大な歴史ロマンが問う「国際化」――司馬遼太郎『韃靼疾風録』中央公論社

<海外勤務に赴く17世紀のビジネスマン>

司馬遼太郎の本は、すべて読んでいる。

最新刊の『韃靼疾風録』も、新聞広告をみるや、本屋にとんでいって買って読んだ。

書評では、伝奇小説や、歴史小説として論じられているが、私は、一風変わった視点から、この長編小説を堪能した。意外かもしれないが、一種のビジネス書として読んだのである。

ときは、将軍・徳川秀忠のころである。物語の主人公である桂庄助は、倭寇で知られる平戸松浦藩の武士の子として、関ケ原の戦いの年に生まれた。彼は、漂着した韃靼人(女真人)の娘を助けるが、主命により彼女をはるか遠い祖国へ送りとどけることになる。

桂庄助は、いま流にいえば、ビジネスマンが会社から、海外派遣を命ぜられたようなものだ。

途中、幾多の苦難に遭遇しながら、ようやく女真の都である瀋陽に到着する。が、その娘アビアの家族は、すでになかった。父が漢人と通じていたため、殺されたのである。アビアも、くびられそうになった。その瞬間、庄助は、「アビアは、私の妻だ」といって、彼女を窮地から救うのである。

このあたりから、庄助は、数奇なる運命の虜になる。

国際結婚をした彼とアビアの間に、二世が生まれる。すると、「汝モ女真ノ人にナッタ」と、庄助は大汗の勅使からいわれるのだ。

しかし、なぜか彼の心は晴れなかった。

<深まるアイデンティティの喪失>

「ときに目の前が白くなる。児を抱いているアビアでさえ線で描いた絵のようで、動きもなく、色もなくなってしまう。これは淋しさというようなことばで片づけられるものではない。
(このようにしてわしは土着してゆくのか)
という思いが、日とともに濃くなってゆくのをどうすればいいだろう。(略)といっても、平戸が恋しいということではない。
(おれは何だろう)
という、腹の底に穴があいているような頼りなさだった」

そうこうするうちに、日本は、鎖国してしまう。庄助は、いよいよ帰れなくなる。

自分が、この世に存在する理由も実感も、失せてしまう。日本国は、在外邦人が鎖国を押して帰国をする場合、死罪に処するとしている以上、庄助は女真にとどまらざるを得ない。とどまって何をすることがあるかと思うと、彼は、自分という存在が足元から実態を失っていくような、猛烈な不安に襲われた。

しかし、彼のまわりにいる漢人たちは、大陸でつながっているにせよ、異国の地にあってたくましく生きている。

「漢人のうち、この女真の地に出かせぎにきて子孫をふやしてきたのは、多くは山東人だったが、かれらは山東に帰りたいともいわず、足摺りして明の治下の地に戻りたいとも思わない。まして庄助のように、主命とか任務などという多分に抽象的なことによって精神をわずらわせることもなかった。
漢人にとって人生の理想としては、強いていえば自他の寿を願うことぐらいなものであった」

これは、国際化しなければならないと呪文を唱える日本人に対する、厳しい指摘ではなかろうか。庄助の陥った立場は、駐在期間が長くなった日本人ビジネスマンと似ていなくもない。彼らは、駐在が長引けば長引くほど、アイデンティティの喪失に思い悩む。帰ってきても、〝国際派〟よばわりされて、なかなか受け入れてもらえないのは、いまも昔も変わらないのだ。

<地球サイズの活動と「日本」的決着>

祖国日本に帰りたい。でも帰れない。思い悩む庄助を、妻のアビアはクールに見つめている。

「漢人はえらい」

漢人ぎらいの彼女が、庄助に向かってこういうのである。庄助には、「倭人はひよわい」といっているように聞こえて、彼は思わず反問する。

「このまま、山東の漢人のようにこの地で生を畢(おわ)れというのか」

心もとなげな庄助に対して、アビアは、漢人ほどの胆のすわりさえあればそうせよ、という。そういう胆のすわり方は、自分のできるところではないと訴える庄助に、

「わかっています。だから(略)私と一緒に日本に帰りましょう、といっているのです。このことを私の主命と思うべきです」 と、アビアはいうのである。

「主命」とでもいわなければ、彼が奮い立たないことを、彼女はよく知っているのだ。悲しいかな、会社からの命を全うすることこそ生き甲斐、という日本人ビジネスマンの姿がここにある。

さて、庄助はどうしたか――。

彼は、清朝の成立の歴史の中に身を置いて、その経緯をつぶさに見聞したあとで、江蘇省蘇州の人・李一官という名の明人になりすまして、長崎に上陸する。鎖国とはいえ、唐人にかぎって、長崎市中に住むことを許されていたからだ。

私は、この結末を読んで、あっと声を出しそうになった。庄助は、日本人の中でも胆のすわった男である。漢人のように異国の地に土着し、命果てるのではないかと勝手に想像していた。いや、じつは私の心のどこかで、そう期待していたのかもしれない。

しかし、庄助は帰ってきた上、密かに平戸に向かい、松浦藩家老に帰還の報告をするのである。何か、日本人そのものを、まるごと目の前につきつけられたようで、ひどく滅入ってしまった。

最近、企業では、海外進出にあたって、現地化だとか、土着化だとか、しきりに唱えているが、それがいかに難しいか、そのことを、司馬遼太郎氏の『韃靼疾風録』は、17世紀のアジアの壮大な歴史ロマンを通して、語りかけているように私には思えた。

司馬遼太郎著『韃靼疾風録』中央公論社
『IMPRESSION』(1987年9月号掲載)

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