Loading...

経済ジャーナリスト 片山修 | Osamu Katayama Official Website

書評詳細0

歴史ドラマが投げかける「実験大国」ニッポンのジレンマ――ポール・ケネディ『大国の興亡』草思社

<NYの本屋に星条旗、日章旗、ユニオン・ジャックの旗があった>

よく指摘されることだが、日本人ほど日本論を読むのが好きな国民もいない。それも、外国人の筆になる〝日本大国論〟ともなると、われわれはたいそう有難がって拝読する性癖がある。かくいう私も、ハーマン・カーンやエズラ・ヴォーゲルなど、一連の日本大国論をけっこう興奮して読んだクチである。

この夏、またまた海の向こうから、ワクワクするような本が翻訳されてやってきた。ポール・ケネディ著『大国の興亡』(鈴木主税訳・草思社)である。アメリカで、この本が発売されたのは今年1月25日。発売と同時に大ベストセラーとなり、ワシントンでは〝アメリカの未来を占う必読書〟とまでいわれたという。

そういえば、2月にニューヨークを訪れたとき、フィフス・アベニューのある本屋のショーウインドウに、星条旗、ユニオン・ジャック、日章旗の3つの大きな旗が仰々しくディスプレイされてあり、一瞬、オヤッと思って立ち止まったのを覚えている。よくみると、それは、この『大国の興亡』の宣伝だった。店頭には、677ページに及ぶ大著が、ベストセラーにふさわしく、うず高く積み上げられていた。

<覇権維持のコスト負担が、大国の衰亡を招く>

同著のテーマは、ルネッサンス以後の近代における国家権力と国際支配力である。西欧に「新たな君主国」が生まれ、国家間の秩序が国際的、世界的な視野でとらえられるようになってから5世紀あまりたつが、同著ではその間のさまざまな大国の興亡が描かれている。

著書のポール・ケネディは、イギリス生まれの歴史学者だ。ニューカスル大学で歴史学を修め、1983年からアメリカのエール大学教授をつとめている。

『大国の興亡』には、「1500年から2000年までの経済の変還と軍事闘争」というサブタイトルがついている。つまり、同著は、16世紀から今日まで、世界の覇権を握ったスペイン、イギリス、そしてアメリカの超大国が、いったいどのようにして衰亡への道をたどったか、その様子をつぶさに分析したまさに歴史書なのである。

その中で、著者は、アメリカも、スペインやイギリスと同様に、いまや明らかに衰亡に向かっていると述べているが、その彼の歴史的な見方が、大統領選挙にからんで政治的な見方に置きかえられ、アメリカで〝ケネディ現象〟と呼ばれるほどの論議を巻き起こしているのだ。

実際、彼は、「手を広げすぎた帝国」がいかに膨張の落とし穴にはまるかを、じつに説得力をもって検証している。大国は、際限のない膨張をつづけて、世界中に覇権を拡大する結果、その権益をまもるコストがベラボウにかさみ、しだいに財政危機に見舞われ、あげくに国力を疲弊させて、ついには衰亡していく。つまり、いかなる大国も経済力と軍事力のバランスを崩して、非生産的な軍拡の道を歩み、衰亡するというのが彼の理論である。

<「日本が21世紀の覇権を握る」ははたしてそうか?>

ではアメリカにかわって、21世紀に世界の覇権を握るのはどこの国なのか。問題はそこだ。

ポール・ケネディは、ある日本の雑誌のインタビューの中で、次のように語っている。
「アメリカが衰退に向かいつつある反面、日本の時代が近づきつつあることは、残念ながら事実です(略)このままいけば、1990年にはアメリカを含むすべての国が日本に対して総額5000億ドルの債務を負うことになります。そして、1995年になると、日本の在外資産の総額はついに1兆ドルの大台を突破するでしょう。アメリカの衰亡は、まさに日本の興隆とウラ・オモテの関係をなしているのです」

日本が、アメリカが衰亡したのち世界の覇権を握れるかどうかは別にして、彼は明らかに日本を〝大国〟として扱っている。その大国日本の成長と、アメリカの衰退が表裏一帯をなしているというのだ。

私は、ここにきて、やっぱりどうも引っ掛かってしまった。この引っ掛かりは、何も『大国の興亡』に限ったことではない。『ジャパン アズ ナンバーワン』以来の、日本大国論に接するにつけ、いつも感じるある種の引っ掛かりなのだ。

それは、ズバリいってしまえば、日本は本当に〝大国〟なのだろうか、あるいは日本は〝大国〟たりうるのだろうか、というきわめて素朴な疑問に端を発している。経済大国、金融大国、ハイテク大国、消費大国、そして債権大国と、日本が大国と呼ばれることに、最近の私は「そうかもしれないが、ちょっと待てよ」となってしまう。

この『大国の興亡』の読後感も、同じだった。私が感じたのは、大国日本の姿よりも、衰退してもなお、その広大な国土と人口と資源とストックにおいて大国でありつづけるアメリカの姿のほうが、ずっとリアリティがあるということだ。そして、日本が大国だといわれても、『ジャパン アズ ナンバーワン』のときのようなセンセーショナルな印象も、ちょっと面はゆいようなナイーブな感慨も、もはや湧いてこない。

少し前、まだ日本が世界一のカネ持ちになっていなかったころ、日本は近い将来アメリカをも凌ぐ経済大国にのしあがるだろうといわれれば、悪い気はしなかった。しかし、本当の世界一の経済大国になってしまったいま、私たちは当時ぼんやりとイメージしていた経済大国日本の姿と、実際のいまの日本のありさまとのギャップに、戸惑っているのではないだろうか。

にもかかわらず、世界からの〝大国ニッポンコール〟は、静まるどころかますますかまびすしくなっていく。経済大国日本の役割、大国としての責任、大国らしいマナーを、世界から要求される。働くことばかり考えずに、ため込んだおカネで、優雅に遊び、リッチな生活を楽しむべきだと、世界からクレームをつけられる。

いったい、大国とはなんだろうか? そう問うてみたくなるのだ。

日本人は、おそらく経済大国の薄っぺらさに少しずつ気づきはじめている。世界一の債務大国といわれているが、「この資本流出の最大の部分は、短期債券(とりわけアメリカ財務省債券)に向けられている」のであり、そのペーパー・ドルは、ひとたびドルが大暴落すればたちまち紙くず同然になってしまう。債券大国世界一といっても、実物資産を保有しているわけではなく、せいぜいハワイやニューヨークに買収したビルをいくつかもっているに過ぎない。

しかも、大国の前に経済とか金融とかハイテクなどと、必ず形容詞がつく大国日本は、決して軍事大国ではない。本当の大国とは、経済大国で、かつ軍事大国である国をいうのであろう。軍事力によってプロテクトされない経済力の弱さは、あの第1次オイルショックの際、日本はいやというほど味わった。だからといって、軍事大国になろうという選択を国民は許さない。これが、大国日本の現実の姿である。

<経済力という片翼飛行だけでは、国際政治は生き残れない>

だいいち日本が、軍事大国になろうと思っても、国民どころか世界がそれを許さないだろう。

「強い日本にたいする内外からの反対が大きいために、日本はかつての帝国主義にのっとった領土拡張を回避するだけでなく、防衛力もさほど強化できそうにない。だが、後者の始末は、太平洋の西側における『責任の分担』を迫るアメリカをしだいにいらだたせるだろう。こうして皮肉なことに、日本は軍事支出を大幅に増大しなければ非難されることになり、それを実行すれば指弾されることになるのである。いずれにしても、これまで耳ざわりのよい言葉で『最大の利益と最少のリスクを追求する外交政策』といわれてきた日本の対外政策に難題がふりかかるわけだ」

日本はあくまで〝町人国家〟でありつづけなければならないのである。しかし、ポール・ケネディも指摘するように、今後とも日本の全方位平和外交が、うまくいくとはかぎらない。

「負担を負いすぎたアメリカがアジアから手を引いたり、あるいはアラブから横浜への石油の流れを保護できないと判断した場合には、(全方位平和外交は)どれほどの効果をあげうるだろうか?第二の朝鮮戦争が勃発した場合にはどうか? 中国がこの地域を支配しはじめたときにはどうか? 衰退しつつあるソ連が過激な行動に出た場合はどうか? 小さな『自衛隊』を保有するだけの『貿易国』がなんらかの答を出さなければならない時がくるかもしれないのだ」

商業的なビジネス知識と経済力だけでは、ジャングルの掟が支配する国際政治の世界では、もはや十分とはいえないことはわかっていても、日本は、それに対処する明確な方法をもちあわせているわけではない。そこに、大国日本のジレンマがあり、時とともに深化する二律背反の中を、どうにか泳ぎ切っていかなければならない日本の苦悩があるのだ。

『大国の滅亡』は、このようにかつてどこの国も経験したことのないポジションに立つ日本の姿を、過去5世紀の歴史ドラマの中で教えてくれるのである。

ポール・ケネディ著・鈴木主税訳『大国の興亡』草思社
『IMPRESSION』(1988年9月号掲載)

 

 

ページトップへ