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経済ジャーナリスト 片山修 | Osamu Katayama Official Website

書評詳細0

ユニークな発想から展開する21世紀の日本のシナリオ――矢野暢『フローの文明・ストックの文明』PHP研究所

<情報収集術は必要に応じて集めては捨てるに限る>

私はかねがね、情報はストックではなくフローである、と考えている。これは、私の経験からきている。

商売柄、情報をメシのタネにしているが、情報をどのように管理するか、いつも頭を痛めている。情報は、洪水のようにドッと押し寄せてくる。それを、どのようにストックして、どうしたら必要なときにパッと出せるのか、長年にわたって頭を悩ませ続けてきた。

新聞の切り抜きにしてからが、そうだ。一時、ノートに丁寧に張り付けていたが、何年かするうち、ノートの山に囲まれてしまった。さらばと、今度は、うすでの上質紙の台紙に張ってコクヨのフォルダーに差し込み、キャビネットに収納したところ、3年もすると、たちまちフォルダーがキャビネットからあふれだし、再びお手上げの状態に陥った。

私は、情報のストックの仕方について、ついに革命的な発想の転換を図ることを決意した。すなわち、情報はストックではなくフローである、という考え方に思い切って変えることにした。情報をすべて手もとにストックしようなどというムダな抵抗をせず、必要に応じて集め、かつ捨てる。ストック派からフロー派に転向したのである。

<明治以降の西洋ストック文明へのあこがれを覆す提言がある>

ストック発想か、フロー発想かというのは、じつは、単にこのような情報収集術の問題にとどまらず、21世紀の日本のシナリオを考えるうえでも、重大にして、すこぶる興味深いテーマなのである。たとえば、モデルなき時代に突入したといわれる日本が、21世紀に向けていったい、ストック派でいくのか、フロー派でいくのか、ということである。

そのことについて、鮮やかに分析し、教えてくれるのが、京都大学教授・矢野暢氏の近著『フローの文明・ストックの文明』(PHP研究所)である。

矢野氏は、まえがきで次のように定義している。

「私はストックやフローをいうとき、それは貯蓄のストックで、消費はフローというような経済学的な二分法を考えているのではない。むしろ、人間が、ときに自分の一生より長くもつものを作り、残そうとする執念をもつ事実に着目してその傾向性を『ストック』といい、他方、消費や消耗、あるいは回転の早い流通などに意味をみるような人間の性のもう一面に注目して『フロー』というのだ」

かりに、人間がそのストックに執念を燃やしはじめたとき、社会はどうなるのか、逆に人間の価値観がフロー本位に流れるとき、社会はどうなるのかということを、同書で氏は展開しているのである。

断るまでもなく、ストックに執念を燃やすのは、欧米社会だ。せんだっても、イタリアにいって聞いた話だが、ローマでは、いまだにローマ時代の建て物がそっくりそのまま最高級のアパートとして使われており、何とかという女優が住んでいるという。

家具だって、同じだ。たとえば、ルイ15世か16世時代ふうの由緒正しい歴史的様式の椅子が珍重されたりする。ヨーロッパでは、その家の家具をみれば、その人の思想がわかるといわれているほどである。

そんな話を聞くと、ストック文明の豊かさと奥行きの深さに、私たちは羨望するのが通例だ。いや、私たちは明治時代以来、ストック文明にずっとあこがれを抱き続けてきたのである。西洋に追いつけ追いこせというのは、いってみれば、西洋のストック文明をいかに身に付けるかだった、といっても過言ではないだろう。

そして、日本は、それを実現したのである。ついに西洋に追いついたのである。実際、わが国は1985年以来、世界最大の債権国にのし上がった。87年末の対外純資産も2407億円で、世界最大の債権国の地位を保っており、この状態は21世紀まで続くだろうといわれている。

ストックは、国家だけではなく、個人にもおよんでいる。株や土地の高騰もあって、日本人個人の金融資産は、4年分の消費に当たる800兆円を超えているのである。

しかし、しばしば指摘されるように、国民の間には、世界一豊かになったという意識はまるでない。ましてや、欧米社会のストックの分厚さを考えたら、日本の繁栄などは一時的なものに思えて仕方がない。

実際、日本は世界一金持ちになったといわれても、そうかなあと首をかしげる人が多いだろう。このギャップは、いったい、なぜ生じるのだろうか。

矢野暢氏は、次のように記している。

「日本は、いわばフローの〈物〉感覚で生きている先端国家である。どのような建造物でも、20~30年もすれば、使いものにならなくなる。家屋とて、いわば耐久消費財なのである。道路とて、車や人の交通のためにあるかのようであって、その実しょっちゅう堀り返され、あたかも土建業を潤すためにあるかのようである。いまの日本社会は、売れるものならなんでも売るという、極端なフローの経済感覚に満たされている」

つまり、日本はフロー文明の国だ、というのである。

<徹底した無在庫の思想が、「反ストック宣言」を支えている>

私が、『フローの文明・ストックの文明』を読んでいておもしろいなと思ったのは、矢野氏が「無在庫」の思想を唱えていることだ。

明治時代以来、ストック文明にあこがれ続けてきた私たちの価値観をぶちこわすように、氏は反ストック宣言をしているのである。

「『フロー』の理想的な状態は、いわばゼロ・インベントリー(無在庫)の状態であって、ものごとがことごとく流動する状態に限りなく近づけることを意味する」

そういえば、部品の供給を徹底的に時間管理した、トヨタのカンバン方式は、まさに生産管理における無在庫思想の実践の極致といえるだろう。

矢野氏は、情報についても触れている。

「情報はとかく蓄積ないし在庫というモチーフで考えられがちだが、それはまちがいであって、情報はとどまるところを知らない急速な流れとして考えられなくてはならない、ということである」

フロー派に転向した私がこの文章を読んだとき、わが意を得たりと思ったのは断るまでもない。

「〈フローの文明〉の特徴は、思想的には徹頭徹尾、無在庫の思想を貫くことである」と述べる矢野氏のフロー賛歌は、続く――。ストックは、永遠性、耐久性、権威性を示唆する。フローは、消耗性、短命性、大衆性を暗示する。考えてみれば、ストック感覚のほうがよほど自然で、人間的に思われる。逆に、フロー派は不経済で、不安定で、しかも不毛であるかのようにみられがちだ。しかし、フローは、それ自体、積極的な価値をもっている。

「大量生産、薄利多売、使い捨て、商品交替の早さ……、むしろ100年、200年もつものは迷惑だというのが〈フローの文明〉の考え方である。〈フローの文明〉の価値は、基本的には平等である」

氏にいわせると、そこから、限られた資源をなるべく平等主義的に多くのひとに楽しんでもらうという発想が生まれてくる。そのかわり、図抜けた金持ちもいなければ、図抜けた貧乏人もいない。企業は永遠にものを作り続けていき、市民も永遠にものを買い続ける。その生産と消費の関係は、メーカーとユーザーの平和共存で貫かれている。今日の繁栄する日本の姿は、まさしく、そこにあるというのである。

<文明史的視点から改めて日本の位置付けを考えてしまう>

矢野氏は、現代日本の特質を次のように説明する。

「ストックを重視する欧米社会、そしてその文明的感化を不当に焼きつけられた第3世界の国ぐにと比べたとき、いまの日本はかなり異質な特徴をみせていると思えてならない。かろやかな〈物〉感覚を練りあげながら、それで文明化を図る方法をいつしか身につけたと考えざるを得ない」

この日本のフロー文明は、世界史に例のないきわめてユニークなものであるという。

「いまの日本は、先例をみない文明国家である。そして、いまのところまるで説明原理を与えられていない新しい種類の文明の実験場なのである。へたをすると、世界各地のことごとくと文化摩擦、文明摩擦を起こすが、しかしうまくいくと、みごとな文明的成熟ないし新文明のモデル形成につながる境地に、いまの日本は立っている」

日本は、いま、たしかに私たちが想像する以上に世界のなかで、とてつもなく大きな存在になっている。ところが、これは前にも触れたことだが、私たちは、日本が大国だとか、世界一豊かな国だという意識を、サラサラもちあわせていない。国際化が叫ばれている昨今、文明史的観点から日本の位置づけを知るうえで、その論旨に賛成するかどうかは別にして、一読に価する書物である。

 

矢野暢著『フローの文明・ストックの文明』PHP研究所
『IMPRESSION』(1989年1月号掲載)

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