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経済ジャーナリスト 片山修 | Osamu Katayama Official Website

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400年前と現代と前衛的精神の組み合わせがおもしろい――赤瀬川原平『千利休 無言の前衛』岩波新書

今年は、利休400回忌というので、このところさまざまな催しが行われている。昨秋、2本の映画が上映されたほか、テレビ番組、雑誌の特集、展覧会、大茶会など、催しが目白押しだ。

私自身も、じつは、昨年、京都の大徳寺に取材に行く機会があった。その際、紹介者があり、大徳寺管長・福富雪底さんにお会いすることができた。訪ねたのは、夏の盛りを過ぎた8月末である。

ご存じのように、大徳寺は、茶道と縁が深い。千利休は、大徳寺の住持・古渓宗陳について30年も参禅しているし、利休が秀吉の怒りをかって切腹させられたのは、そもそも大徳寺山門に自らの木像を置いた不敬不遜の行為にあったとされている。今日でも、利休の流れをくむ千家の家元は、一度は必ずこの大徳寺で修行することになっている。

管長の福富さんの口添えで、利休の墓のある聚光院や、芳春院など非公開の塔頭のいくつかを見学させてもらうことができた。聚光院では、茶室閑隠席を見物しながら、住職から茶禅一味の話をうかがった。管長のおられる龍泉庵では、管長自らが入れて下さったお茶をいただいた。ちょうどそのとき、ザーッと強いにわか雨がやってきた。雨に打たれる苔むした庭と、屋根の瓦を打つパラパラという音が涼を誘った。心にしみる景色だった。

私はそのときのことを思い出しながら、赤瀬川原平著『千利休 無言の前衛』(岩波新書)を読んだ。

著者の赤瀬川氏は、作家兼前衛画家で、最近はまた路上観察家としても知られている。その彼と千利休? 一見、不思議な組み合わせに思えるが、考えてみれば、彼は、昨年公開された松竹映画「千利休」のシナリオを描いているのだから、別に奇妙な組み合わせというわけでもない。

いや、この本の面白さは、むしろ、その妙な組み合わせにあるのかもしれない。

彼は、次のように記している。

「カメラ、自動車、テレビ、コンピューター、都市再開発、その他もろもろの実業世界での物品創造があきれるほどの形で加速度的に増大し、虚業世界での作品創造はその価値が一気に低下した。もはや何物かを作るよりも、世の中を見ていた方がはるかに面白い」

そのような認識の上に、前衛画家は、芸術行為としての路上観察をはじめる。

「路上にあってちょっとズレたもの、ちょっとはみ出したもの、ちょっと歪んだもの、欠けたもの、見捨てられたもの」を、〝超芸術〟と定義し、観察するのだ。その路上観察と、利休の侘び茶と相通じるものがあるという。

「ひょっとして、むかし、歪んだり欠けたりした茶碗をさ、利休たちが〝いい〟なんて言い出した気持ちと同じなんじゃないのかな」と、路上観察家は考えるのだ。

たとえば、茶の湯で珍重されている井戸茶碗は、まさしく日常の中で見棄てられた価値が蘇生したものであるといわれている。

「そもそも井戸茶碗というのは、韓国ではごく日常の飯茶碗である。だから値段など安いものだが、その中にひょっとした出来具合で美しいものがあり、それが日本に渡って利休の目にとまってしまった。

『素晴しい』ということになり、

『こんなものは日本では見たこともない』ということになってしまった」

あの利休の創始した身をかがめてやっとひとりが入れる、お茶室の躙り口にしても、そうだという。躙り口のルーツについては、能の楽屋から舞台へ昇る入り口からきているとか、船の中の部屋の入り口からきているなど、いろいろの説があるが、韓国の足軽の部屋に、同じような入り口があることから、最近、韓国説が有力視されている。

「……井戸茶碗と同じように、韓国では有難くも何ともない入り口であったのだろう。そこにしかし風俗を超えて新しい空間構造を見た『サク・ラ』の人々が聖域であるお茶室の入り口にそれを持ってきたことは充分に考えられる。さらに侘びの思想をもってすれば、屋敷内の最下層の部屋という、日常の辺境をあえて引き寄せる美意識の勇気がうかがえるのだ。

口に出してはいわないが、ここに近代でいう前衛的精神の潜んでいるのが見える」

このように、大胆に推測するのだ。

<茶道の形式化は、生への不安を解消するためだという>

お茶の心についても、次のように考察する。たとえば、茶道のお点前について、あまりにも形式化、儀式化しているという批判がある。あげくは、行儀作法や流儀を習うためのお茶に堕落しているという声もある。たしかに、その側面は否定できない。

しかし、もっと深く心の問題にまで踏み込んで考えるのだ。

「……少し大げさになるのだけど、毎日お茶を入れる、その入れ方にもっとも良い順序というのが決まってきて、それがスムーズにとりおこなわれていくことによって、安心をするということがあるのである。心のやすらぎを得る、と言い変えてもいい」と彼はいうのである。

人間はいつも何らかの不安を抱えて生きている。その不安は、つきつめていえば生きることへの不安である。お茶を入れるのも、その生きている不安から遠ざかるための行為であるという。

「お茶にしてもお花にしても、お稽古ごとといわれるもの一般が同じ構造を生きている。そこにある形式美に身を潜めることの快感があるのである」

じつをいうと、私はほんの少しお茶を習っている。いまさら行儀作法を習うのは手おくれだから、流儀を習うためのお茶に堕落しているほうの最もたる者だが、著者の見方には同感である。実際、私自身、「形式美に身を潜めることの快感」を味わっているのである。

前衛芸術論や茶道論は別にして、日本人の精神性について、深く考えさせてくれる著作である。

赤瀬川原平著『千利休 無言の前衛』岩波新書
『IMPRESSION』(1990年5月号掲載)

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