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経済ジャーナリスト 片山修 | Osamu Katayama Official Website

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ライカを通して日本のモノづくりを考えさせられる――田中長徳『くさっても、ライカ』IPC

戦前、ライカ一台で家が一軒買えたといわれた。当時の人にとっては、文字通りカメラといえばライカを意味した。戦争中にソ連版ライカ、アメリカ版ライカなど、ライカコピーが数多く作られたのも、ライカがそれほどすばらしい写真機だったからである。戦後、日本のカメラメーカーは、その「ライカに追いつけ、追い越せ」をスローガンに掲げた。実際、キヤノンの社史『キヤノン史 技術と製品の50年』に、「会社復興後の精機光学工業(注・キヤノン前身会社)にあって、ドイツの高級35㎜カメラ『ライカ』を意識しだした御手洗は、ことあるごとに〝ライカに追いつき、追い越せ〟といった〝打倒ライカ〟にも似たスローガンを唱えた。良質な材料もなく、精緻を極める加工技術とて持ち合わせていない中にあっての発言だっただけに、掛け声倒れとの感もあった」とある。

考えてみれば、戦後の日本は、「欧米に追いつけ、追い越せ」を目標にモノづくりに励んできた。カメラも例外ではなかったのである。欧米諸国からの最新の技術を導入した日本は、主として生産技術に改善を加え、品質管理の徹底化を図り、国際競争力を身につけて、しだいに経済大国の道を歩み始める。それとともに、日本製品は〝チープ・ジャパニーズ・グッズ〟から〝ハイクオリティ・グッズ〟に変身し、カメラでいえば、ニコンやキヤノンなどが世界のカメラ市場を席巻する。

こんなエピソードが語られている。ドイツ語圏の小国に住む機会のあった著者は、現地のカメラ店のショー・ウインドー内で演じられている日本製とドイツ製のカメラの陣取り合戦を見る機会に恵まれる。著者はそれを10年のスパンで観察するが、それは日独カメラメーカーの力の構図そのものであった、と書いている。彼によると、日本のカメラが旺盛になってくるのは、1970年代後半からで、それは「日本の各メーカ―が35ミリ一眼レフカメラを常識やぶりの価格で提供してきた時期に重なる」という。ここらあたりの観察は、じつに卓抜である。

つまり、日本のカメラはついにライカに追いつき、追い越したのである。とはいっても、それはマーケットにおいての話である。日本の市場シェアにおいてライカをキャッチアップすることには成功したかもしれないが、モノづくりの本質においてライカに勝ったかといえば、はなはだ疑問だというのが著者の立場である。

日本製カメラはカメラ文化を根本的に変えてしまった、と著者は考える。高価なカメラを長く使い込む〝耐久消費パターン〟から、次々と新しいカメラを買い替える〝消費財パターン〟に買い手の認識を転換させてしまった。その究極のかたちが使い捨てカメラであるが、この別名レンズつきフィルムは、カメラのメカニズムを楽しむという喜びを撮影者から奪ってしまったと嘆くのである。ここにみられるのは、大量生産・大量消費路線を突っ走る日本のモノづくりの姿ではないだろうか。

日本とドイツは同じ敗戦国でありながら、経済路線に関して別の道を歩んできたといえる。その結果、ドイツのライカと日本のカメラとが対極の価値を持つようになった。日本のカメラが大量生産・大量消費の産物であるのに対し、ライカはクラフトマンが一台一台精魂込めてつくり上げるといったイメージを持つ、神秘性あふれた少量生産の賜物である。同じようなことは、多分、トヨタとベンツについてもいえるに違いない。だから、ライカが1973年に、日本のミノルタと技術提携したことに、著者は著しく不満を感じるのだ。

たしかに、カメラに限らず日本製品は世界の市場を席巻してきたが、しかし、大量生産システムのツケが回ってきているといえるだろう。たとえば、日本製品の多くは今日、海外で生産されている。キヤノンにしても、上級機の一部のほか、中級機10種類のうち半分の五機種が台湾で設計され、生産されている。その背景には、円高と日本の労働賃金の高さがあるが、カメラに限らず、産業の空洞化現象があちこちにみられるのだ、いや、それがグローバリゼーションというものだとする意見もあるが、技術の神髄というのは、簡単に海外移転できるのではないのもたしかだ。烈々なライカ愛好家の書としてだけではなく、ライカを通して日本のモノづくりを考えさせてくれる書物である。

田中長徳著『くさっても、ライカ』IPC
『中央公論』(1994年6月号掲載)

 

 

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