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経済ジャーナリスト 片山修 | Osamu Katayama Official Website

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変革するアジアの影を読む――姜哲煥・安赫『北朝鮮脱出(上・下)』文藝春秋 ほか

先進諸国の経済が停滞しているなかで、アジア諸国の目覚ましい経済的躍進が目立っている。だが、アジアの現実をながめてみると、近代に向けてダイナミックに変革を遂げているかと思えば、いまだ旧態依然とした部分が色濃く残るなど、混然一体の印象だ。「21世紀はアジアの時代だ」といわれるなかで、私たちは光の部分にばかり目を奪われがちだが、影の部分にも目を向けなければいけないだろう。それがアジアのもう一つの現実で、じつは、そこに本質があるかもしれないからだ。

その意味で、これまで秘密のヴェールに包まれ、 語られることのなかった北朝鮮の暗部についてリアルに描いているのが、姜哲煥・安赫著 池田菊敏訳『北朝鮮脱出(上・下)』(文藝春秋、上1800円 下1600円)だ。二人の青年の〝北朝鮮政治犯収容所体験記〟(上巻)および〝北朝鮮脱出記〟(下巻)である。著者の一人、姜哲煥は9歳のとき、家族とともに政治犯収容所に収容される。日本からの帰国者の祖父がある日突然いなくなったと思ったら、「わが民族と祖国にぬぐい去ることのできない罪を犯した事実が明らかになった。だから今、全財産を没収し(略)全家族を押送する予定です」と通告され、苛酷な運命に遭う。すさまじい体罰、叱責と殴打、重労働、飢えと疾病など、10年間におよぶ収容所の日々を生々しく描いている。運よく出所した彼はもう一人の著者、安赫とともに、凍結した鴨緑江を走って渡って中国に脱出したのち、韓国への逃亡に成功する。知られざる北朝鮮の実情が、これでもかこれでもかと語られている。

溝口敦『チャイナマフィア―暴龍の提―』(小学館、1500円)は、中国系組織犯罪集団の実態を徹底取材したレポートだ。新宿・歌舞伎町を足場に1992年から94年初めにかけ、チャイナマフィアを訪ねて台湾、香港、上海、昆明などを歩いている。たとえば、密航を取り仕切る香港の蛇頭(スネークヘッド)は、米国などへの密航希望者から一人あたり2~300万円を受け取っているという。そして、「密航の手配、儲かります。日本、アメリカ、カナダ行きたいチャイニーズを船に乗せて、公海上で日本、台湾の船に積み替える。拳銃の密輸と一緒、ベーリー簡単です」という香港マフィアの証言を取っているのだ。21世紀は中国の世紀にまちがいないが、それはチャイナマフィアの世紀でもあると著者は確信する。リアリティに富んだ読み物である。

山際素男『インド群盗伝』(三一書房、2300円)は、インドのほぼ真ん中チャンバル渓谷を舞台にした〝インドのロビンフッド〟といわれる義賊たちを取材したドキュメントだ。カースト制がいまなお残るインドは、底深い社会を作り上げている。たとえば、〝ダコイット(群盗) 〟とそれを取り巻く世界は、「中世的伝統社会と、カースト制を含めた近代インド社会、政治、そして貧困といった問題が深く係わり合い、壮絶にして壮大なドラマを織りなしている」というのだ。「少なくとも14世紀この方、500年にわたり最低に見積っても優に2000万人以上の人間を縊殺しつづけてきた稀代の殺人秘密結社」で、しかも、何十代にもわたる世襲的な職業がダコイットであるそうだ。その群像を現場に取材しているのだから迫力満点だ。

正直いって、近代化の影の部分を強調して描き込んでいる以上の著作を読み進むうちに、頭のなかのアジア論はいささか混乱し、袋小路に入り込んだ可能性があるから気をつけなければいけない。どうするか。まず、そんなときに便利なのが激動のアジアの動きを分析している、大薗友和『アジアを読む地図 変貌する経済、政治、民族、軍事の最新データ』(講談社、1800円)だ。項目ごとに描き分けられた地図を見ながら、アジアの動きを手に取るようにたどることができる仕掛けになっている。たとえば、「運輸通信・エネルギー、インフラの大変貌」では、自由化で本格化する華橋の情報文化戦略が示され、国境を超えた通信メディアの実態が明らかにされているという具合だ。

変貌するアジアにおいて、人々がどんな葛藤や屈辱を強いられているのかを探りたいと思えば、今村仁司『タイで考える』(青土社、1800円)を読むに限る。タイ人のメンタリティー、経済発展、経済行動、宗教的態度の変動を語るなかで、近代化に飲み込まれていく伝統社会の揺らぎを描いている。 「いまやタイは新しい段階に移行しつつある。亜熱帯ののんびりしたタイというイメージは急速に失われつつある。スピードと効率と機械的時間性が尊重される多忙な社会になるであろう。『豊かな社会』 になるではあろうが、これまで経験したことのない諸問題に悩まされることであろう」と、著者はいう。

それから、私たちは、こうしたアジアといかに付き合うべきか。松本健一『近代アジア精神史の試み』(中央公論社、1600円)は、1850年代から1990年代の現在にいたるほぼ150年にわたるアジアの歴史を精神史を軸に描いているから参考になる。彼は、「幕末以降の日本の経験を理論化し、戦後の日本の成功がたんに『産業国家』への変身に あるのではなく、地球規模で現地化したことにあった事実を明らかにすべきだ」と語っている。

姜哲煥・安赫著、 池田菊敏訳 『北朝鮮脱出(上・下)』文藝春秋
溝口敦著『チャイナマフィア―暴龍の提―』小学館
山際素男著『インド群盗伝』三一書房
大薗友和著『アジアを読む地図 変貌する経済、政治、民族、軍事の最新データ』講談社
今村仁司著『タイで考える』青土社
松本健一著『近代アジア精神史の試み』中央公論社
『小説すばる』(1994年6月号掲載)

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