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経済ジャーナリスト 片山修 | Osamu Katayama Official Website

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普遍言語への人類の飽くなき追求――西垣通『ペシミスティック・サイボーグ』青土社

コンピュータについて、これほど平易に書かれていながら、これほど人類の普遍的言語への欲望の本質をついている本もないのではないだろうか。

著者の説明を待つまでもなく、最先端の人工知能コンピュータは、一秒間に数百万回から数億回もの記号操作が行なわれる化け物のような機械だ。人工知能コンピュータは、もはや単なる計算機械ではなく、言語機械だといわれているが、言語機械といえば、13世紀につくられた「ルルスの円盤機械」がある。「キリスト教の諸概念を記した数枚の円盤がクルリクルリと回転する面妖な機械」であったというが、このルルスの円盤機械と人工知能コンピュータの「懸隔は途方もなく大きいように見える」が、じつは「両者をむすぶ糸は意外なほど太い」と、著者は考える。その「糸」を繰りながら、独創的なコンピュータ文化論を紡ぎ出していくのだ。

著者によると、人工知能の究極の理想は、「人間のような心をもつ機械」、「思考する機械」であるという。この考え方は、人間の心はすべて何らかの記号によって表すことができ、記号の形式と操作であるという前提のもとに組み立てられている。つまり、人間の思考は、記号の計算にほかならないというロジックにもとづいているのだ。たとえば、マサチューセッツ工科大学で人工知能研究所を設立し、現在はドナー記念教授のマーヴィン・ミンスキーの次のような言葉を紹介している。「〈こころ〉とはエージェントたちが集まってできた社会」だという。エージェントはコンピュータの世界ではプロセスといわれ、一つひとつの動作の単位をいう。たとえば、目の前にある紅茶カップを手にしたいとすると、心のなかで、「カップをつかむ」、「平衡をとる」、「のどが渇いている」、「腕を動かす」などのエージェントたちが相互に協力し合いながら、「紅茶を飲む」という行為を実行させるという。また、「記憶とは以前の〈心の状態〉を再現するためのメカニズムである」とし、エージェントとの相互関係によって心の基本的な働きを説明する。このようにコンピュータの原理を平易に解説されると、非電脳人間もワクワクと読み進むことができる。

著者は、コンピュータはそもそもユダヤ人を抜きにしては論じられないとするが、ここらあたりからは、あたかも推理小説を読むようにおもしろくなる。1940年代にアメリカで世界初のコンピュータが誕生したが、その生みの親は、ユダヤ人のジョン・フォン・ノイマンだ。しかも、コンピュータがアメリカで生まれ、発展した背景には、ユダヤ人が深くかかわっており、そのルーツははるかコロンブスの時代にまでさかのぼるという。ユダヤ人とされるコロンブスの出帆のウラには、スペインでのユダヤ人追放令があったと推論する。ユダヤ人はきわめて普遍的な思考をする民だ。迫害された流浪の民であるユダヤ人は、あらゆる土地に移り住み、普遍性や世界性といったものに対するあこがれを並外れて強く持った。その結果、普遍的思考に優れた民族に育ったユダヤ人が、普遍的言語機械の開発に能力を発揮するのは必然性がある。しかも、米国は、ユダヤ人の〝約束の地〟であったのだから、米国でコンピュータが発展するのは当然だと筆を進めていくのだ。

日本は1966年、国家予算をつぎ込んで、第五世代コンピュータの開発をスタートさせるが、この試みは失敗に終わる。その理由として、日本人とユダヤ人の文化の違いを著者は指摘する。「第五世代コンピュータ・プロジェクトの研究者集団は優秀だった。だからこそ、彼らが哲学的=社会的ひろがりを持つパラダイム自体と対決せず、かわりに並列推論という技術的テーマに全精力を集中していった事実を、わたしたちは、自らの内部の『巨大な文化的断層』として捉え直さなければならない」という。ユダヤ人は万物をロジカルにとらえていく普遍的思考を持つが、日本人は土着性がきわめて強く、普遍論理からはあまりにも疎遠なため、第五世代コンピュータの開発に失敗したというのである。

普遍言語への人類の飽くなき追求は、ついに言語を生み出す肉体にまでおよんで、脳と機械とを接続させたサイボーグへの道をたどることになる。「やがて乾いた螺旋状の軌跡をえがいてサイボーグの宇宙に吸い込まれていくのだ。もしそれが避けがたい定めだとすれば、私はせめて、ペンスミティックスなサイボーグになりたい」と、著者は最後に語る。久しぶりに知的刺激と知的スリルに富んだ本に遭遇した印象である。

西垣通著『ベシミスティック・サイボーグ』青土社
『中央公論』(1994年7月号掲載)

 

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