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経済ジャーナリスト 片山修 | Osamu Katayama Official Website

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マルチメディアの入門書――安原顯編『私のワープロ考』メタローグ ほか

マルチメディアに対する関心が高まっているが、マルチメディアとは何かと改めて問われると、いまひとつよくわからないという声が返ってくることが多い。マルチメディアはいまや単なるブームにとどまらず、21世紀の世の中を大きく変える原動力になるだろうと専門家たちは指摘している。かりに、そうだとしても、私たちはマルチメディアとどう付き合うべきなのか。いや、それ以前に、キーボードに対するアレルギーをいかに克服すべきか。マルチメディア入門にあたって、以下、少し違った角度から目を通すべき本を取りあげてみた。

キーボード・アレルギーを解消するためにも、また、これからマルチメディアに挑戦してみようと考えている人にも、まず、肩肘はらないで読めるのが、安原顯編『私のワープロ考』(メタローグ、1500円)だろう。小説家、評論家、アーティストなど48人のワープロに関する私見がまとめられている。たとえば、柏木博氏は「ワープロを手に入れることは、もうひとつの記憶する脳を手に入れたにちかい」といい、山根一眞氏は、「私にとってのワープロとは、私の脳の中身の吸い出し機であると同時に、世界を目の前にもって来ちゃう魔法の水晶玉なのであります」と語っている。

ワープロを使い始めると、いままでのように原稿用紙に向かって文章を書くのが苦痛になる、としばしば指摘されるが、ワープロによる思考とペンによる思考とはまったく異なったものであり、ワープロ人間はもはやペン人間に戻ることができないほど、脳の中身がワープロ化されてしまっているということだろうか。いずれにしろ、ワープロとの悪戦苦闘物語やワープロのおかげで腱鞘炎から解放された話は参考になる。

ワープロとくればパソコンを取り上げないわけにはいかない。ましてや、通信機能に優れたパソコンはマルチメディアの中核的ツールとして期待されているからだ。そのパソコンを知るには、マッキントッシュのハードウエアとソフトウエアの開発ストーリーを綴った、スティーブン・レヴィ『マッキントッシュ物語』(翔泳社、1600円)が面白い。開発に携わる技術者の取材をふんだんに織り込み、生の声をまじえて数多くのドラマが生き生きと描かれている。パソコンをいじるのは……と尻ごみする向きも、この開発物語を読むと、ひとつ試しに触ってみるかという気にさせられる。

ワープロ、パソコンときたら、次はコンピュータである。西垣通『ペシミスティック・サイボーグ』(青土社、2200円)は、人工知能コンピュータの原理を平易に解説しながら、コンピュータの「心をもつ機械」「思考する機械」の可能性を探っており、刺激的なコンピュータ論の一冊といえる。日本は第5世代コンピュータの開発に失敗するが、著者によると、その理由は、日本人とユダヤ人の文化の違いにあるという。コンピュータを発展させてきたユダヤ人は万物をロジカルにとらえていく普遍的論理思考を持つが、日本人は土着性がきわめて強く、 普遍的論理からはあまりにも疎遠なため、開発に失敗したというのだ。やや専門的だが、普遍的思考に優れたユダヤ人とコンピュータとの関わりについ て、推理小説を読むかのような面白さがある。

さて、肝心のマルチメディアであるが、以下、二冊を取り上げてみた。林敏彦・大村英昭編著『文明としてのネットワーク』(NTT出版、2300円)と公文俊平『情報文明論』(NTT出版 5500円)である。前者はネットワーク社会を社会学、文化人類学、経済学、情報工学の視点から分析している。「人は今、新たな『支え合いの人間学』を模索している」とし、ネットワーク社会が「文化疲労」 を招いたと指摘している。後者は文明史の立場から、軍事化、産業化に続く、「智識文明」への移行にともなう内部変化について論じている。公文氏によると、産業化時代の価値の中心であった「富」 は、「智」へ移っていき、情報技術によるインフラの上に構築される「智識文明」の時代がやってくるという。「私の予想では、未来の情報社会において は、これまでの〝家族〟や〝地域共同体〟あるいは〝職場共同体〟にかわって、一種の〝バーチャル・コミュニティ〟でもある〝コネクティブ〟が社会的統合の中心に位置することになりそうだ」と指摘している。

最後に、電脳的な思考や感性を読み解きながら、 現代文学に批判を加えている、布施英利『電脳的』(毎日新聞社、2000円)を読むのも一興だろう。著者は、「現代は脳の時代だ。脳の特性は『情報』をあつかうことだが、この情報こそが現代のリアリティとなっている」という。そして、著者自身は、ワープロについて「数年もキーボードを打っていると、ピアニストの超絶技巧を思わせるような早わざで(と自分では思っている)指が動くようになる。頭の中で文章をそらんじる時も、キー配列が浮かび、それを想像でカタカタ打っている自分に気づくようになる」という。キーボード世代らしい一言だ。書くことから打つことへの移行は、思考法を大きく変えるというわけである。

安原顯編『私のワープロ考』メタローグ
スティーブン・レヴィ著『マッキントッシュ物語』翔泳社
西垣通著『ペシミスティック・サイボーグ』青土社
林敏彦・大村英昭編著『文明としてのネットワーク』NTT出版
公文俊平著『情報文明論』NTT出版
布施英利著『電脳的』毎日新聞社
『小説すばる』(1994年10月号掲載)

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