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経済ジャーナリスト 片山修 | Osamu Katayama Official Website

旅・夢風景

片山修が旅について語る。
日本各地の写真とコラムによる「旅夢風景」

弘前 弘前に歴史のロマン・自然・文化を探る

hirosaki1 ついに憧れの弘前にやってきた。


 八戸まで延びた東北新幹線「はやて」と、接続する特急「つがる」の登場で、弘前への旅がとても便利になった。
 太宰治が通った旧制弘前高校、石坂洋次郎が先生をしていた県立弘前高等女学校。葛西善蔵、佐藤紅緑、今日出海、今東光兄弟など、地元にゆかりの深い作家も多い。それより何より、弘前は、津軽藩の城下町であり、政治、経済、文化の中心地として栄えてきただけに、町のすべてに歴史が息づいている。その「北の成熟」に触れたい、と長年思い抱いてきたのだ。
 さて、弘前といえば、すぐに思い浮かぶのが桜である。「弘前さくらまつり」は、4月23日から5月5日まで開かれる。つまり、弘前が本州桜前線のしんがりをつとめるわけだ。真打であるのだから、その桜が見事でないわけがない。
 そして、弘前の桜といえば、断わるまでもなく弘前城だ。小ぶりで優雅な弘前城の天守閣をバックに、満開の桜をあしらった、観光ポスターは、お馴染みだ。
 城に最初に桜が植えられたのが、正徳5年(1715年)という。真打だけに年季が入っている。弘前では、このように一事が万事、奥が深いのである。桜の木は現在、53種2600本にのぼる。
「毎年、180万人~190万人の人が全国各地から桜見物にいらっしゃいます。桜は、まず、外堀、次に本丸、そして西堀という順番で咲いていきますね」
 というのは、弘前市商工観光部観光物産課の北岡聖子さんだ。

hirosaki7 この桜の名所弘前城の北門(亀甲門)の目と鼻の先に建っているのが、石場家である。

「石場家は、城の北郭の堀端にある。
旧藩時代、藩の御用をつとめた富商で、いまはそのものが国の重要文化財に指定されている」
と、石場家を訪ねた司馬遼太郎は、「北のまほろば 街道をゆく」(朝日文庫)の中で、記している。
 石場家は、250年ほど前に建てられた、津軽地方の数少ない商家の遺構だ。重文指定の民家というと、大抵、記念館として保存されているものだが、石場家の場合、いまも酒店を営み、住んでいるところに値打ちがあるのだ。
実際、とてつもなく広い土間は、今も勝手場として使用されているし、板の間の囲炉裏には薪がくべられ、自在鉤にかかった大きな鉄瓶の湯がたぎっている。土間に入った途端、一瞬、目が開けられないほど、内部が煙っていたのが、その何よりの証拠である。使われていないのは、井戸だけであった。
板の間に上がり込み、囲炉裏を囲んで、御主人の石場清勝氏から話を聞く。
「戦前は、3世代に加えて、使用人を含めておよそ30人が、この家に住んでいました。毎日、大釜で飯を3回炊いていたと聞いています」
重文の家の住み心地について訊ねると、「へそ曲がりというか、若いときから山にしょっちゅう入っていましたから、雨露がしのげればいいんですよ」といって、彼は笑った。
いただいた名刺の肩書がまた、いいのだ。「推奨津軽地酒会会長」である。それをいうと、「一杯やりますか」といって、石場屋酒店オリジナルで、年間200本しか販売しないという、純米吟醸「鄙亀」を奥から出してこられた。
「津軽にはおよそ20軒の蔵元があります。津軽の酒は、料理の味付けが濃いこともありまして、それに負けずにしっかりしていないと売れないんです」
遠慮なくいただくと、確かに、無骨なほどしっかりしていながら、フルーティーな味わいだ。この出会い、弘前まで身を運んだ甲斐があったぞな。

「弘前ねぷた」を体験


hirosaki3「弘前ねぷた」は、国の重要無形民俗文化財だ。文禄2年(1593年)藩祖津軽為信が京都滞在中、盂蘭盆会で都の人に見物させようと大灯籠を出したのが始まりという。

「弘前ねぷた」と「青森ねぶた」は、比較対照されるのがつねである。前者が扇型であるのに対して、後者は人形型。前者が練り歩くのに対して、後者は激しく跳ねて狂喜乱舞する。また、「弘前が出陣に対して、青森は凱旋の祭りといわれています。弘前がほとんど町内会単位で参加するのに対して、青森のねぶたは企業での参加が多いようですね」というのは、「津軽藩ねぷた村」の企画営業・立林修さんだ。
この夏祭りの弘前ねぷたは、いつでも体験可能だ。「津軽藩ねぷた村」で、実物大のねぷたを前にした、お囃子の実演や、「金魚ねぷた」の工作に加えて、津軽三味線の生演奏などが行われているのだ。
 津軽錦と呼ばれる、金魚をモデルにした可愛い「金魚ねぷた」の絵付けに挑戦してみる。夏祭りの際、この「金魚ねぷた」を軒下に下げたり、子供たちが持ち歩くのだという。

hirosaki2 先生の指導を受けながら、張りぼてに、墨で目、鼻、口、エラなどの輪郭を描く。次に、蝋書きといって、約130度で溶かした蝋で鱗部分を防水し、染料で色付けするのだ。結構、マジに絵付けをしないと、津軽錦どころか、たちまち出目金になってしまう。



「お岩木さん」に詣でる

 地元の人たちが「お山」「お岩木さん」と呼ぶ、ご存じ岩木山。津軽富士とも呼ばれる、その南東の麓、すなわち弘前市内から車で30分ほど走ったところに、岩木山神社がある。
 大きな鳥居の前に立つ。拝殿に向かって、真っ直ぐ一本の参道が続く。両側は、年輪を経た深い杉木立。静寂が支配する。山全体がご神体として畏敬されていることに納得する。度肝を抜かれるのが、楼門だ。その堂々たる存在感に圧倒される。
 本殿も、その華麗さが日光東照宮に似ているところから、「奥日光」と呼ばれているというが、なるほど壮麗である。
 弘前市内に禅林街がある。一画に禅宗のお寺が、33寺も集まっているのだ。そこに、津軽家最初の菩提寺である長勝寺がある。江戸初期の寛永6年(1629年)に建てられたという、その三門がまた、見事だ。
hirosaki9岩木山神社の桜門に似ていると何かに書いてあったのを読んだが、その堂々たるところは、確かによく似ている。厳しい東北の自然に耐えるかのように、聳え立っているのだ。

 弘前には、日本の美がある。「北の成熟」に触れる旅は、「大人の旅」でもある。

小学館『週刊ポスト』 2003年2月7日号 掲載

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