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アメリカ第2の鉄鋼会社の衰退物語に学ぶ教訓――ジョン・ストロマイヤー『鉄鋼産業の崩壊』サイマル出版会
<ベスレヘム・スチール入社は家族の誇り――そんな時代があった>
昨シーズンの社会人ラグビーはつまらなかった。常連の新日鉄釜石が出場しなかったからだ。なんと、あの釜石が地区予選で負けてしまったのである。そのニュースを新聞のスポーツ面の片隅にみつけたとき、〝釜石ファン〟だった私は、いよいよラグビーにまで〝鉄冷え〟が及んだかと暗い気持ちになったものだ。
もし、あなたの息子が就職試験で新日鉄と野村證券の両方に内定が決まったら、あなたはどちらにいくのを勧めるか。新日鉄は、従業員6万3000人の超マンモス企業である。
野村證券は、経常利益4900億円の収益日本一の会社である。
おそらく、10年以上前であれば、誰しも躊躇なく新日鉄を勧めただろう。いまはどうだろうか。鉄鋼産業はいまや斜陽である。それに対して証券会社は、日の出の勢いである。野村證券を推すかどうかは別として、多くの人が新日鉄をかつてのように無条件で推薦することはないだろう。
日本での鉄鋼産業の衰退は、それほど顕著である。が、その先例をアメリカにみることができる。ジョン・ストロマイヤー著、鈴木健次訳『鉄鋼産業の崩壊』は、USスチールに次いでアメリカ第2の鉄鋼会社ベスレヘム・スチールの興隆から崩壊までを描いている。
「私はベスレヘム市のグローブ・タイム紙の編集長として、1956年から84年までの28年間、鉄鋼産業の隆盛から破滅の瀬戸際までを、いわばかぶりつきの席で見てきた」
ピューリッツァー賞受賞記者である著者のストロマイヤーは、そう記している。
彼によると、アメリカの典型的な工業都市の特徴をすべて兼ね備えていたペンシルベニア州ベスレヘム市には、1940年代、2万1000人の労働者が鉄の生産に従事していたという。
「私が初めてこの町に来たころ、窓の桟にどのくらい塵がつもっているかは、鉄鋼所の生産高がどのくらいかを示す目盛りのようなもので、また時間外労働で男たちがいくら稼いだかを示すバロメーターでもあったのだ。昔の労働者は窓の塵を一目見ただけで、次の給料袋がどのくらいの厚さになるかがわかる、と言っていたものである」
それはまさに〝鉄鋼の時代〟であった。著名なジャーナリストであるジョン・ガンサーは、その著『アメリカの内幕』の中で、「何にもましてアメリカを偉大な国にしているのは、この国がイギリス、戦前のドイツ、日本、フランス、ソビエトを合わせた鉄鋼生産量を上回る、年間9000万トン以上のインゴットを生産しているという事実である」と、1947年当時述べている。
実際、そのころベスレヘム・スチールに就職することは、家族の誇りであったという。ストロマイヤーの兄も青年に達するとすぐ、ベスレヘム・スチールの工場に職を得た。10年以上前、釜石市において新日鉄釜石製作所に就職するのは、それと同じような意味をもっていたに違いない。
<まず「現場を知らない経営者」が、衰退を招いた>
ところが、アメリカ鉄鋼産業の現状は、目をおおうものがある。
「40年後の現在、鉄鋼産業に関する統計は国家衰退の姿を物語っている。1万5000人以上の職場が永久に失われ、老朽化した生産施設が生産停止になって再開のメドも立たないまま、3000万トン以上もの生産能力が失われてしまった。鉄鋼の国内市場の4分の1は、新しい施設を持ち、賃金の安い諸外国の攻勢によって占拠されてしまった」
これは、どういうことなのだろうか。なぜ、かくも無残な衰退の道をたどったのだろうか。〝鉄冷え〟にあえぐ鉄鋼関係者や、構造不況業種に勤めるサラリーマンならずとも、興味がそそられる。
ストロマイヤーは、いくつかの原因をあげているが、第1に経営者が無能だったとしている。ベレスヘム・スチールの多くの経営者は、勤勉な努力家であったが、自分の財産の追求にかけても、恥も外聞もない人間が多かった。そのため、独善的になり、自分のまわりで何が起きているのかまったくわからなくなってしまったということである。
たとえば役員たちは、会社の役員食堂で昼食をとり、午後は専用のゴルフ場でプレーを楽しんだ。また彼らは、自分の部屋が角部屋で2方向に窓がないと満足しなかった。このため、21階建てのオフィスビルは、建築家が機能的で経済的だと考えている従来の長方形ではなくて、わざわざ十字型に建てられた。
欧米の経営者はもともと、ワーカーとハッキリ一線を画するなど、現場には決しておりていかない。ベレスヘム・スチールの役員は、その典型だったわけだ。というより、酷ないい方をすれば、基幹産業の座にあぐらをかいて、甘い汁をすっていただけかもしれない。
このような経営者のもとでは、技術革新が図られるはずはなかった。だから、鉄鋼業界を左右する技術は、ヨーロッパと日本というアメリカ以外の国で進歩した。60年代に世界各国で相次いで導入された「連続鋳造」は、アメリカの鉄鋼会社ではほとんど採用されなかった。
「1981年、アメリカでは鉄の生産総トン数のわずか1パーセントが、〝連続鋳造〟によっていたが、日本では70・7パーセントの製品が、アメリカより効率的な設備によって生産されていたのである。ヨーロッパ諸国では45・1パーセントが連続鋳造による製鉄であり、カナダでさえ32・2パーセントの鉄がこの新しい方法でつくられていた」
当然のことながら、技術革新に決定的なおくれをとったのである。
<国民1人ひとりの利益につながる、鉄鋼産業の存続>
ストロマイヤーはまた、基幹産業を衰退させた〝A級戦犯〟として労働組合をあげている。
「ストライキはきまって経済を麻痺させ、アメリカの製造業界最高の賃金、最も長い休暇、それに組合の規則や安全基準を盾に雇用者に水増し雇用や生産制限を強要するフェザーペッティング的労働慣習を、きわめて数多く認めさせることに成功した。本来、労働者の働き口を確保するためにつくられた労働組合のリーダーたちは、いまや製鉄所が競争力を失って操業を短縮し、労働者たちが職を失っていくのを傍観して、ひたすら既得権にしがみつくために闘争している」
なかでも有名なのが1959年の争議である。鉄鋼関係上位11社はその年、鉄鋼労働組合(USW)に対して強行路線でいくことに決めたことから、ストライキは116日に及んだ。
アイゼンハワー大統領はタフト=ハートレー法による国家緊急事態を宣言し、鉄鋼労働者に職場復帰を命じて、やっと幕を閉じたのである。
「これを機に、外国産の鉄がアメリカにドッと入りはじめ、1958年に200万トンだった輸入量は、59年には500万トンにはね上がった。20世紀になって鉄の輸入が輸出を上まわったのは、このときが初めてである。しかもこれ以降、輸入量が再びストライキ以前のレベルまで下がることは決してなかった」
彼は、そう書いているが、何十年もつづいてきた労使の敵対感情に根ざす相互不信は、いまなおつづき、簡単に解消しそうにもない。
ベスレヘム・スチールは、結局、「現場を知らない経営者」「巨大な組合のパワー」「技術革新の遅れ」といった多くのアメリカ企業の抱えている病理に深くむしばまれていたのである。
翻って日本はどうであろうか。
私にかぎらず、この本を読んだものは、韓国の急迫を受けて、窮地に立たされている日本の鉄鋼産業の将来に思いをはせずにはいられないだろう。
たとえば、新日鉄は、62年1月に室蘭、釜石など高炉5基の火を消して、1万9000人を削減する大合理化案を発表した。さらに1カ月後には中期経営計画をまとめた。1995年に売上高4兆円を達成し、そのうち製鉄事業をいまの8割から5割以下に落として、エレクトロニクス及び情報通信の分野で2割、都市開発で1割稼ぐというのである。しかし、この中期計画が実現し、新日鉄が生き残れるという保証はどこにもない。いわゆるリストラクチャリングである。
いまや、流行語にさえなっているリストラクチャリングが、絵に画いた餅になることも考えられるのである。
そう思うと、全日本選手権連覇の偉業を成し遂げたラグビーの名門チーム新日鉄釜石が、燃えさかる高炉の炎のように、〝復活〟する日はくるのだろうかと、ファンとしてはやはり暗澹たる気持ちになってしまう。
ベスレヘム・スチールの衰退物語を、われわれは対岸の火事視するわけにはいかないのである。
ジョン・ストロマイヤー著 鈴木健次訳『鉄鋼産業の崩壊』サイマル出版会
『IMPRESSION』(1987年11月号掲載)