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経済ジャーナリスト 片山修 | Osamu Katayama Official Website

書評詳細0

鋭い視線でブームの実相を解き明かし現代の危うさを指摘する――芹沢俊介『ブームの社会現象』筑摩書房 

ブームは、いつの時代にも、熱病のように生まれ、アワのように消え去るのが世の常である。この『ブームの社会現象学』(筑摩書房刊)は、80年代後半から90年代初頭にかけて、爆発的に起こり、消え去った、幾つかのブームについて論じている。

著者の芹沢俊介氏がブームを解剖するメスは、前著の『システムの贈り物』と同じである。すなわち、「高度大衆社会における欲望」を社会システムが提供する〝贈り物〟として捉え、その贈り物を消費する大衆との関係において、ブームの実相を解き明かしていく手法である。

取り扱われているのは、脳死と臓器移植、カードブーム、土地ブーム、ワンルームマンション、レトロブーム、女性雑誌、神の花嫁焼身事件、オウム真理教、体外受精、過食・拒食児……などである。

なかでも読み応えがあるのは、脳死と臓器移植だ。

指摘するまでもなく、脳死者は、高性能な人工呼吸器が作り出した新しい死の状況といわれている。つまり、脳死者は、ICU(集中治療室)の中で作られる。本来、ICUは、脳死者を作らないための施設であるにもかかわらず、皮肉なことに脳死者はICUで作られているのが現状だ。これは、どういうことなのだろうか。

「このことは、脳死および脳死者がシステム社会(超高度先進資本主義社会)が生み出した逆説的現象であることを語っている。もうひとつ、脳死という概念は、臓器移植の必要性が引き寄せたものでもある。その点で、これらふたつの新しい矛盾は、システム社会に特有の現象であると言えよう。私たちはこうした現象をシステムが不可避に作り出すという意味で、システムの贈り物と呼んでいる」

そして、このシステム社会のもっとも本質的な特徴は、システムの産出力が最大に機能するように、あらゆるものを合理的に配置していることだと芹沢氏はいう。

<システム社会における合理性の追求は 、死生観の変更をも迫るだろう>

システムの意志は、あくまで合理的である。合理性にもとづいて、あらゆるものがその位置に適した重味が与えられる。しかも、その位置と重味は、いつでも他のものに取り替えられることだ。じつは、この「システム社会の合理性の追求の仕方と人体というシステムの合理性の追求の仕方がパラレルである」というのだ。

「個々の臓器は、人体というシステムの意志によって、その位置と重味を合理的に配分されている。各々の臓器はその位置と重味にしたがって、生産し自己を消費している、すなわち機能している」

自己消費し過ぎて疲れた臓器については、ときに栄養や薬が与えられる。しかし、不幸にも機能が回復しなかったり、さらに悪化したりした場合、切除されるか、さもなければ他の臓器と交換される。

「私たちが、臓器の交換や移植を望むのではなく、人体というシステムの合理性が、その交換や移植を要求するのだ」と、彼は述べる。

かくして、人体の自然的な内部と人体の外との境界との絶対性が消滅していく。 その結果、いかなる事態が生じるのか。

たとえば、臓器移植技術が完璧になったと想定し、瀕死のふたり、YとXがいたとする。Yは新しい心臓が、Xは新しい肺が必要であるふたりは誰かひとり、かりにZを殺すことができるなら、自分は助かる。しかし、何の罪もないZを殺すわけにはいかない。そこで、瀕死者に抽選番号を与えておいて、適当な臓器提供者を選ぶ。ひとりの犠牲において2〜3人の瀕死者を助ける仕掛けだ。

「合理性の要求水準を高度化し、高速で回転するシステム社会は、脳死と臓器移植をめぐって現在、とてつもなく乾いた状況を生み出している。(略)公共財あるいは公共資源として、脳死者の人体を取り扱おうとする動きである」

つまり、脳死者は、自ら交換物を要求しない。無償の自然臓器の提供者だ。その意味で、脳死者の人体は、システム社会において公共財の側面を持つようになる。それは、芦沢氏がいうように「死と生の価値の落差を消滅させ、やがて死を生の上位に置くことを不可避とする」といった、いわば死と生が転倒した不気味なSF的社会を出現させるばかりか、死生観そのものの変更を迫るに違いない。

同じようなことは、体外受精についてもいえるだろう。それは、やはり生命観そのものの変更を強制するに違いない。

たとえば、生殖技術の高度化は、性交・受精・分娩という従来の連続的な生殖過程をバラバラに分解した。ところが、凍結受精卵は、TV番組を収録しておくのとまったく同様に、時間の流れをパックし、自在に止めたり、流したりすることができる。その結果、氏のいうように、どの時点を生命のはじまりとするかによって、父母兄弟の順序が混乱してくるありさまだ。

「かつて、この時間は自然に属し、自然を構成する男女に属していた。いま時間は、技術という人工の介入を受け入れざるをえなくなっている。このとき時間は誰のものか? そう問うことは意味のあることである。胎児は誰のものか? と問うことと、それは同じである。そしてこのことはまた、自分で考えることを奪い返すことにつながっている」

現代社会の危うさを鋭く指摘し、刺激に満ちている。

芹沢俊介著『ブームの社会現象学』筑摩書房
『IMPRESSION』(1991年1月号掲載)

 

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