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経済ジャーナリスト 片山修 | Osamu Katayama Official Website

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古くても決して消えない「娯楽」の証明――『ちくま日本文学全集』筑摩書房

「日本文学全集」などというと、何か古臭い感じがする。古本屋の本棚の中で、ホコリをかぶっている感じだ。それほど、文学全集というのは今日、過去のものになっている。

ところが、「おしゃれで読みやすい文学全集」が新たに誕生し、大ヒットしている。筑摩書房から刊行中の文庫サイズの 「ちくま日本文学全集」である。

今年2月にスタートし、これまでに芥川龍之介、寺山修司、宮沢賢治、太宰治、内田百閒、坂口安吾、谷崎潤一郎、色川武大など10冊が刊行されているが、1冊当たり平均6万部が売れており、すでに60万部を突破している。全50巻の文学全集だから、このままいけば300万部の売上げが予想されるわけだ。これは、明らかに事件といわなければならない。

文学全集がもはや、過去の産物と思われていたときに、「ちくま日本文学全集」は、なぜ大ヒットしたのだろうか。

筑摩書房取締役第二企画室編集部長の松田哲夫氏はいう。

「従来のような菊版とか、四六版の重厚な文学全集は、たしかに時代に合わなくなっています。たとえば、高度成長時代には、まだ大きな文学全集や百科事典は知的な家具のイメージがありまして、各家庭に1セットずつある感じでした。ところが、住空間の問題がより深刻になっていく中で、大きな文学全集はかさばるため、置くスペースに困り、邪魔な存在になってしまった。加えて、読書をめぐる環境の変化があげられます。教養主義が崩れて、文学を体系的に読む習慣がなくなりました。その結果、文学全集が成立しにくくなったわけです」

筑摩書房は今回、これらの問題点をクリアするため、二大方針を立てたという。ひとつは、版型をコンパクトなサイズにする。昔と違って読書は、書斎でする時代ではない。忙しい現代人は電車の中、喫茶店、旅行中などに読書を楽しむ。その意味でも、ハンディなスタイルにするのが好ましいというので、文庫サイズが選ばれた。

もうひとつは、〝文壇政治〟にとらわれないで編集する。文学全集を編む場合、Aという作家をいれると、バランスの上からBという作家をいれなければいけないとか、作品の選定をめぐって作家から代表作ではないから別の作品と替えてほしいなど、さまざまな注文が出る。このため、編集者が思うように編集ができないケースが多いといわれている。そこでこの際、文学史などは頭に入れないで、徹底しておもしろい作品を中心に選ぶことにしたという。

<時代に迎合するのではなく、その時々に読まれる作家がいるはずだ>

その結果、貧乏物語や病気ばなしの私小説家がはずされた。そのかわり、江戸川乱步、夢野久作、海音寺潮五郎、白井喬二といった大衆的な物語作家のほか、内田百閒、尾崎翠、稲垣足穂などといったある種のマイナー作家が選ばれた。

「いまの若い人たちは、たぶん佐藤春夫よりは内田百閒を読むと思うんです。時代の傾向に迎合するのではなくて、やはりその時代時代に読まれる作家がいると思うんですね。そこで、作品のおもしろさで、いま読まれている作家を中心に選んだんです。ですから、新しいところでも寺山修司とか、澁澤龍彦といった異色の作家をいれました」(松田哲夫氏)

知識はかつて、教養だったが、知識は今日、娯楽になっているという説がある。たとえば、昔のクラシックファンであれば、バッハ、ベートーペン、モーツァルト、ワグナー……という風に、段階的に聴いていった。つまり、クラシックは教養であり、ファンも教養として聴いていた。ところが、いまは違う。CFで流れるワグナーやマーラーの断片を聴いて、たちまちワグナーやマーラーのファンになってしまう。ベートーベンやモーツァルトを知らないし、クラシックを教養として聴く気など頭にないのである。

同じことは文学についてもいえるだろう。いまのの若い人たちは、文学全集を教養としてではなく、 あくまで娯楽として読むに違いない。「ちくま日本文学全集」が大当たりしたのも、そんな風潮と無縁ではないだろう。そういえば、松田氏も、こう語っている。

「娯楽は今日、価値観が多様化する中で、芝居、映画、テレビ、ファミコンなど増えるいっぽうです。しかし、文学は、いちばん古い娯楽で、決して消えないことを、今回のヒットであらためて実感させられました」

私自身この「ちくま日本文学全集」の一冊をカバンの中にしのばせておいて、通勤電車の中で小説を読む楽しみをたっぷりと味わっている昨今である。

『ちくま日本文学全集』筑摩書房
『IMPRESSION』(1991年9月号掲載)

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