書評詳細0
フーリガンたちの生態に肉迫し、その社会的背景を探る――ビル・ビュフォード『フーリガン戦記』白水社
フーリガニズムは、おもにサッカー場において暴力行為を働いたり、略奪を行なったり、犯罪を犯したりするなど、サッカーのサポーターたちの暴徒化現象で、英国のフーリガンがもっとも有名だ。いってみれば、フーリガニズムは、現代スポーツにおける影の現象だが、本書は英国のフーリガンたちの生態に肉体を賭けて迫っている。米国人である著者は、実際に暴徒と見なされ、警官から手をひどく殴打されるのだ。自分が取材者なのか、フーリガンなのか見境がつかなくなるほど対象にのめり込むところが、いかにも行動派の米国らしい。
著者は、「マンチェスター・ユナイテッド」のサポーターについて英国内はもとより、イタリア、ドイツにまで渡り、フーリガニズムの現場からルポする。「ユナイテッド、ユナイテッド……」と連呼が始まる。それが一瞬やむと、恐ろしい悲鳴が聞こえてくる。「爆発している、爆発している。彼のまわりのだれもかれも興奮していた。その興奮はなにかもっと大きなもの、もっと突出した感動――控えめに言えば喜び、けれどももっとエクスタシーに似たもの――になろうとしていた。そこには濃密なエネルギーがあった」と記す。いったい、彼らはなぜ爆発するのだろうか。
そのことについては、これまでにもさまざまな解釈がなされてきた。たとえば、サッカーの原型である中世末のフットボールは、何十人から何百人もの集団が時間も空間も決めないで一個のボールを追い求め、大規模な乱闘も辞さなかった名残りだという。また、社会的背景からの説明も行なわれてきた。フーリガニズムの現象が顕著になるのは1980年代からであるが、80年代は失業の増加、女性の権利の拡張、価値観の多様化など、社会の枠組みが大きく激しく変わった。その変化から取り残された人々が存在意義を見失って、アイデンティティのよりどころを暴動に求めたという。著者は、フーリガンたちに対し、その問いを直接ぶつけて、生々しい答えを引き出している。粉石鹸を作っている男は、「おれたちはみんな、そいつをおれたちのなかにもっている。そいつはきっかけだけを必要としている」という。そいつとは「暴力だ」と答える。週のあいだは「彼らはどこのだれでもない。そうだろう? けど、そのあと試合にくるとき、すべてが変わる。彼らは重要人物のように感じる」と、技師マークは語る。機械の組み立てラインで働くリチャードはいう。「おれたちは土曜を楽しみにしている。(略)それはおれたちの人生で一番意味のあることだ。ひとつの宗教だ。本当さ。おれたちにとっては、それほど大事なんだ。土曜はおれたちの礼拝日だ」
どうやらフーリガンたちは、サッカー場や街頭という舞台をかりて自己の存在理由を懸命に見つけようと暴動を演じているようだ。ただ、その社会的背景には失業問題があるため、厄介な問題が内在するのもたしかだ。著者はフーリガニズムが人種差別主義、右翼主義、男性至上主義などと結びつく危険性の指摘を怠らない。右翼団体・ナショナル・フロントのパーティにも潜り込み、その退廃的な雰囲気を描き込みながら、「サッカーのスタジアムは理想的な党員募集の場所である」という言葉を紹介しているのだ。ここらあたりは、ドイツのネオ・ナチズムを考えるうえで参考になりそうだ。
本書を読む限り、総じてフーリガンたちは、荒っぽくって、暴力的ではあるものの、特別変わった人間ではない。なかには泥棒や詐欺師などの犯罪者、ドラッグをやっている者などもいるが、熟練電気工のミックにしても、電気技師のスティーブにしても、まあ、個人としては普通の人間だろう。しかし、マスと化したときの彼らは、恐怖の暴徒となる。体当たりの密着取材をしているだけに、その落差がみごとに描かれている。その落差のなかにこそ、フーリガニズムの問題の根っこがあることを教えてくれる。それにしても、米国人の書くノンフィクションは、なぜ、かくも執拗なのだろうかと、いつものことながら考えさせられた。本書を読むには脂っこい描写、冗漫な語りに付き合うことを覚悟してかからなければならない。
ビル・ビュフォード著 北代美和子訳『フーリガン戦記』白水社
『中央公論』(1994年9月掲載)