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人類の鍵握る30年におよぶ貴重な記録――西田利貞著『チンパンジーおもしろ観察記』紀伊國屋書店
ヒトはいつの時代においても、さまざまな関係のなかで生きてきた。自己と家族、自己と他人、自己と社会、自己と国家、自己と世界、自己と自然の間でときには共存し、ときには敵対し合いながら、微妙なバランス、適度な距離感をもって相対してきたのだ。しかし、おそらく80年代末あたりから、冷戦構造の崩壊、ボーダレス社会、24時間化などのなかで、これらの微妙なバランスや適度な距離感が崩れ始めたように思われる。
実際、バブル崩壊と長期にわたる不況下において集団的帰属主義、会社至上主義、横並び意識といった日本の企業社会の価値観が根本的に疑われ、個人の生き方そのものまでが問われ始めている。それは、日常の現実的世界とのバランスのなかで、自己と企業との関係を新しく構築していかざるを得なくなったことを意味する。すなわち、人々は、いま、避けては通ることのできない他者との新しい関係づくりに大きく揺れ動いているといえるのではないだろうか。
もちろん、人間とチンパンジーを比較して論じるつもりはない。ただ、人間社会が自己と他者との関係によって発展してきたことを考えれば、チンパンジーの社会の仕組みを知ることは、私たちに何らかのヒントを与えてくれるのではないかと思われるのだ。その意味で、チンパンジー社会を30年かけて調査した『チンパンジーおもしろ観察記』は、一読の価値があるだろう。
チンパンジーは、連合、同盟、裏切り、和解、子守、敬老、甘え、だましなどの高度な心理表現を持つという。著者は、16歳の雄ジルバの集団リンチ事件を目撃し、チンパンジーがヒトと共通の多くの心的特性を持っていることを記している。それによると、第一にメンバーと非メンバーの峻別をする、第二にアルファ雄(第一位雄)がメンバーか非メン バーかを決める、第三にメンバーは付和雷同しアルファ雄に味方する、第四に復讐や報復という行動特性を持つなどと指摘している。つまり、チンパンジーも他者を受け入れたり、排除したりすることを繰り返しながら、彼らの社会を構築していると考えていいだろう。
「チンパンジーの知能は、道具使用などよりも、社会的な面でよく発揮されるようだ」と、著者は記しているが、本書を読むと、知能あってこそというべきチンパンジー同士の争いの場面がじつによく描かれている。一説によると、チンパンジーには明確な優劣関係が存在し、劣位集団は優位集団を避けて行動するそうだ。そして、集団の安定状態から不安定状態への移行の過渡期に、暴力や攻撃事件が頻繁に起こるらしい。
翻って人間社会に目を向けてみるとどうだろうか。私たちはいま、歴史的大転換期にいる。いわば、一つの通過儀礼を受けているような気がしてならない。この大転換期をどう通過するのかというノウハウは、これまで人類が培ってきた経験知からは引き出せそうにもない。人間が作り出してきたスケールとは別のもっと大きな視点からものごとをとらえていく必要があるのではないだろうか。「もちろん、チンパンジーとヒトとは違うところも多い。違いもあるからおもしろいのであって、そこから洞察も生まれる。違いのあるものとの共存は、結局人類に多くの愉しみと利益を与えるものである」と語る著者の見解に、どうやら答えの鍵の一つが隠されているように思われる。
西田利貞著『チンパンジーおもしろ観察記』紀伊國屋書店
『中央公論』(1995年2月号掲載)