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経済ジャーナリスト 片山修 | Osamu Katayama Official Website

書評詳細0

東西交流の歴史が小説を読むように生き生きと――陳瞬臣『紙の道』――ペーパーロード 読売新聞社

私はかつて、いささか邪道と考えつつも、喜多郎の〝シルクロード〟のカセットテープをウォークマンで聞きながら、中国の〝奥地〟ウルムチ、トルファンを旅行したことがあるが、本書を読むうち、天山山脈を遠くにのぞむシルクロードの砂漠の情景があざやかに眼前に浮かんできたものである。

紙は、よく知られているように中国で発明された。発明者は、後漢の宦官の蔡倫ということになっている。今の高校の世界史の教科書にもそう書かれている。いってみれば、蔡倫は文明の大恩人ということになるが、事実は、紙の発明者というより改良者であるというのが正確なところらしい。

著者によると、古代中国では、綿といえば真綿をいい、質の落ちるものを「絮」といった。「絮を水で撃って白くすることを『漂』といったが、この作業も麻や苧とほぼ似ていたようだ。水辺で女性たちがこれをやっているのが、古代中国の一つの風物詩であった」という。つまり、「世間話でもしながら、絮を撃っていたのであろう。そんな作業が何十年、何百年もつづいているうちに、『紙』がうまれたにちがいない」と推測するのだ。いかにも作家らしい想像力あふれる筆で、一気にタイム・トリップさせられる。

中国で発明された紙の製法が中国から西方世界へ伝わったのは、8世紀半ば以降だという。アッバース朝イスラム軍と唐軍とが国境に近いタラス(現カザフスタン共和国)で戦ったのは、751年のことだが、そのとき、イスラム軍の捕虜となった唐兵の中に紙漉き職人がいて、やがて、サマルカンドに西方第一号の工房が作られたというのが定説になっている。東方で作られた絹がはるばる西方に運ばれ、その道がシルクロードと呼ばれ、人々のロマンをかきたててきたが、紙もまた東方で発明されて、西方世界に伝えられたわけだ。しかし、紙は必ずしも一方的に東方から西方に伝えられたわけではない。

ところで、蔡倫は、どのように紙を改良したのか。それは、よくわかっていないらしい。「蔡倫は工夫して樹皮、麻、敝布(ぼろ)漁網を用いて紙を作ることを考案し、元興元年にこれを奏上し、帝はその才能を善しとした」と後漢書にあるが、その蔡倫紙は、臼と杵を用いて、樹皮などを搗き砕いたに違いないと、著者は考察する。中国では、蔡倫より何百年も前から石臼は存在し、現在も副葬品としての模型が出土しているが、戦国期に粉食とともに、西方から石臼が伝わったらしいという。つまり、西方から石臼が伝わっていたから、蔡倫は画期的な紙の製法を開発できたといういい方もできるのだ。そして、その画期的な紙の製法が今度は東から西へ伝えられたという次第だ。東西交流の悠久の歴史が小説を読むように生き生きと語られている。

紙の消費量は文化のバラメーターだと言われている。そのとおりだとは思うが、ずいぶん無駄な使われ方をしているのも事実ではあるまいか。OA革命によってペーパーレスが実現するといわれたが、一向にその気配がないどころか、大量に出るOA用紙がゴミ問題になっているのだから世話はない。多分、マルチメディア時代を迎えても、紙の需要は衰えまい。が、蔡倫の時代から紙が消費されることによって文化が再生産されてきたのもたしかだ。この消費・再生産のサイクルは紙に限らず、文明の根本的矛盾だといわなければならない。

陳舜臣著『紙の道』――ペーパーロード 読売新聞社
『中央公論』(1995年1月号掲載)

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