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インド哲学体系による刺激的な経済理論――ラバ・バトラ『1990年の大恐慌』勁草書房
<現代のいらだちが支える恐慌論ブーム>
大恐慌再来説が昨今、しきりと唱えられている。実際、大きな本屋をのぞくと、店頭の一角に恐慌論コーナーが設けられ、おどろおどろしいタイトルのいわゆる〝恐慌本〟が、うず高く平積みされている。
私自身、その平積みされた本の中から何冊かを買い求め、読みふけっている。いずれも、1929年の大恐慌が近い将来再来すると、データなどを駆使して、熱っぽく説いている。
何冊かを読みあさるうち、今度はどんな恐慌論が述べられているのだろうかと、興味ばかりが先行して、また新刊に手が伸びてしまう。われながら危機中毒症気味だなと、苦笑する。
しかし、本当に大恐慌がやってくるというのであれば、こんな風に悠然と恐慌本など読んでいてもいいものだろうかと、いつも、どこか釈然としない気持ちが私の中にある。もとより資産など持ち合わせない私だが、いくら大恐慌が再来すると説かれようとも、正直な話、預金を下ろしに銀行へ走ろうという気にはならない。
恐慌本だが、中には非常に興味深い内容のものもたしかにある。ラビ・バトラ著、佐藤隆三訳『1990年の大恐慌』(勁草書房刊)は、その1冊だ。
「1929年に株式市場のあぶく相場がはじけて大恐慌になったように、1990年には全世界が大恐慌の真只中にあるに違いない」
いきなりそうぶち上げ、題名もいささかきわものじみているが、数多くの類書と違ってその内容はきわめてユニークな歴史観に支えられているのである。
著者のラビは、米サザン・メソジスト大学教授(国際貿易論専攻)で、インド人経済学者である。敬虔なヒンズー教徒の彼は、そのユニークな歴史観を、母国インドの優れた学者であるプラバット・ランジャン・サーカの哲学体系から借りてきている。「サーカの社会周期の法則」と呼ばれるのがそれである。
「サーカの社会周期の法則」によると、文明社会は、①労働者②軍人③知識人④利欲者――の4つの階級が循環的に支配し発達する。現代は「利欲者の時代」だと、ラビはいう。その循環論に、仏教の輪廻の思想を読み取ることも可能だ。利欲者の時代の特徴を、彼は次のように描いている。
「利欲者時代のひとつ悲しむべきことは、利欲者の考え方が、結局社会のあらゆる階層に浸透することである。他の階級時代には支配階級の姿勢はそれほど広がるものではないし、一般化するものでもない。だが富裕者に支配される時代では、最終的には、他の階級の人々も、金銭の誘惑に服従する。その結果あらゆることが商業化される――言葉、芸術、文学、スポーツもである。
犯罪も頻繁に起こる。あらゆる文明社会の大衆を悩まし続けた法の軽視が、いつの利欲者の時代にも見受けられる」
利欲者の時代には、知識人も含めたあらゆる人々が金銭的、経済的な財貨にもっぱら関心を注ぎ、富の所得を当然のこととするというのである。
この独特の「サーカの社会周期の法則」には、西欧合理主義とはまったく異質な東洋哲学のにおいがある。経営ノウハウやカネ儲けを指南するビジネス書に倦んだサラリーマンには、新鮮な印象を与えるに違いない。
すべての物事を近代合理主義によって解決しようと考える現代人にとって、この書は、人間の営みを根源から考え直すという発想の転換をもたらしてくれるかもしれない。
<金融大国日本の悲観的見方が崩壊を呼ぶ?>
さて、この過度の利得競争の結果生じた富の不均衡の進展が投機的行為を引き起こし、それが大恐慌の原因になると、ラビはいう。
こんな具合だ。
「アメリカの人口の5パーセントを占める金持ちは、40パーセントを占める底辺の人々を合わせたよりも高い収入がある。そして、アメリカ人の1パーセントの最も富裕な人々が、90パーセントを占める底辺の人々よりも莫大な富を所有している。すなわち10パーセントを除いた全人口よりも多くの富を所有していることになる」
富の集中は、1929年代の水準をこえて危険な状態にある。これは、何かカタストロフが起こることの予兆だと、彼は警告する。
つまり、需要の減退に大恐慌の原因を見るケインズ学者や、通貨当局の政策の失敗にその原因を探るマネタリストとは違って、人類の歴史において不可避的、宿命的におこる一部の富裕階級への富の集中に、大恐慌の原因を見るわけだ。しかも、彼によると、その大恐慌は日本から始まるというのだから、日本人としてはおだやかではいられない。
「株価は、1980年代を通じてほとんどの資本主義国で急速に上昇し続けているが、日本では世界のどの国よりもその上がり方がずっと急であった。すべての不況は、株式市場のバブル(あぶく相場)から始まり、破綻で終わる。しかし、いまこの日本のバブルは、アメリカのものよりもかなり大きく、また両国のバブルは、ともに日本の持続的な貿易黒字によってますます膨れ上がってきている」
実際、現金とドル資産の余剰を持った日本の法人や個人は、アメリカと日本の株式市場で多額の投資を続けている。さらに、カナダや西ヨーロッパ、あるいはオーストラリアや第3世界の国々へも多額の投資をしてきた。
日本はいまや、1970年代末までアメリカが占めてきた世界一の金融大国としての地位につくに至っている。
「したがって」と、ラビはいう。
「日本の投資家がカネと自信を持ち、楽観的な見方をしているかぎり、世界の株式市場は過去6年間の好景気をこれからも続けることだろう。しかし、この楽観が悲観に変わるやいなや、株式市場は、世界の至るところで崩壊することになるだろう」
では、どのようにして決定的瞬間がおとずれるのか。
「決定的な瞬間は、今後3年の間に円が急激に上昇し、日本の見通しが楽観から悲観に置き変わる時期におとずれる可能性が非常に高い。日本の法人が実際に倒産しなくても、期待感の反転があれば株式市場の方かはたちまち起きる。ひとたび日本の株式市場が崩壊すれば、日本の投資家は海外からその資本を引き上げざるをえず、それが世界のあちこちの暴落を引き起こすことになる」
<生きている経済だから〝波乱〟は起きる>
恐慌本の結末はだいたいが、世界経済の終末を予言している。その意味では、ラビの著書も例外ではない。
1929年の大恐慌では、アメリカの自動車生産は4分の1に減り、鉄鋼生産も半分に減った。GNPは半減した。つまり、成長率はマイナス50パーセントである。失業率も25パーセントを記録し、街頭には職を失った人々があふれた。「世界の崩壊」ということがあるとすれば、1929年10月24日こそその日だと当時の人は思った――。
あらためて問うが、いったいぜんたい、このような1929年に匹敵するほどの大恐慌は再来するのだろうか。
「今後は波乱が多いんじゃないでしょうか」野村證券会長・田淵節也氏は、ゆっくりとした口調でいった。
私が氏に会ってインタビューしたのは、ニューヨーク・ウォール街の大暴落、すなわち1987年10月19日〝流血の月曜日〟の3カ月前である。
「経済は生きているんですから、かならず波乱は起きます。ドスーンと暴落してみたり、石油も1バーレル30ドルになるかもしれない。もうそろそろフォローの風も終わるだろう。アゲンストになるんじゃないかな」
「しきりに恐慌説が流れていますが、大恐慌は再び起こるのでしょうか」私が聞くと、
「起こらない、起こらない」彼は首を左右に振った。
「恐慌といったら、100のものが20になる。100のものが60とか70になるのは、それは恐慌のうちには入らない。それでも相当の波乱ではありますよね。ただ、それくらいの覚悟はしておかなきゃならないということですな」
現実に、田淵氏の予言は当たり、株価が30パーセントを暴落するという流血の月曜日が、ウォール街を襲った。その暴落の波は、日本をはじめ世界に波及した。しかし、1929年の再来というにはほど遠かった。
それにしても、大恐慌再来説の裏側には、現代人の漠然とした不安感、繁栄に対するいい知れぬ不信感、先が読めない不透明感、そしてそういう諸々の時代感情からくるいらだちがたしかにあると思う。恐慌論ブームはまだまだ続くだろう。私も新しい恐慌本が本屋に出れば、また思わず手にしてみるに違いない。
ラビ・バトラ著 佐藤隆三訳『1990年の大恐慌』(勁草書房)
『IMPRESSION』(1987年7月号掲載)