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「国際人になれない日本人」の憂鬱――寺澤芳男『ウォール・ストリートの風』ネスコ文藝春秋
<「ブラック・マンデー」を経て、金融の中心地は閑散としていた。>
あのウォール・ストリートを訪ねた。今年2月のことである。
「あの」といったのは、いま日本では映画「ウォール街」が上映されるなど、マネー・ゲームのメッカ、ウォール・ストリートが、ブームといってもいいくらいの注目を集めているからである。
よく知られているように、ウォール・ストリートとはニューヨーク市マンハッタン区の南端にある、500メートルほどの東西に通じるストリートである。
「ウォール」というのは、壁とか塀という意味である。その昔、この地域ではアメリカン・インディアンが、原始的だが、のどかで平和な生活をしていた。そこへ、いまから300年前、オランダから移民がやってきた。ウォールとは、西欧文明の進入を食い止めるために、当時のインディアンがつくった柵なのである。
そこが今日、世界の金融の中心地となり、世界中のカネが、集まっているのだ。
ただ1987年10月19日の「ブラック・マンデー」以来、ウォール・ストリートには、はっきりとかげりがみられるようになった。その辺のことに関する情報は、日本でもさまざまなかたちで報じられているが、百聞は一見にしかず。実際に行ってみると、街は予想以上に暗く、閑散としていた。
今回ウォール・ストリートを訪ねたのは、ほかでもない野村證券副社長・寺澤芳男さんに同行して、大暴落後のウォール・ストリートを取材するためであった。
寺澤さんは、野村證券に入社して以来、ウォール街一筋に生きてきた人で、通算16年をニューヨークで過ごしている。62年1月に、5年間つとめた米国野村證券会長の職を去って帰国し、本社で副社長職に専念している。だから、寺澤さん自身にとって今度のウォール・ストリート訪問は、ある種のセンチメンタル・ジャーニーのようなものではなかったかと、私は推察している。
実際、一緒に歩いていると、至るところで「テリー」「テリー」と彼は声をかけられ、握手を求められる。ウォール・ストリートでは、彼はまさに〝カオ〟である。むろん、16年間のキャリアによって築かれた知名度なのだろうが、日本人でこれほど暖かく、そして違和感なくアメリカ人にうけいれられるビジネスマンを、私は他に知らない。国際的ビジネスマンとはこういう人をいうのだろうと、ウォール・ストリートを闊歩する寺澤さんをみながら、私はつくづく思った。
その寺澤さんが、ニューヨーク証券取引所の前で車を降りた瞬間、誰にいうこともなくポツリとつぶやいた。
「本当に閑散としている。こんなウォール・ストリートをみたのは、ぼくははじめてだ……」
現実に、それは実感された。
寺澤さんの案内で、ニューヨーク証券取引所の立会場や、取引所の会員だけが利用できるランチ・クラブへもいく。
売買の伝票の紙切れが床に散乱している立会場は、思ったより広かった。人びとがひしめき合っているという熱気は感じられない。大暴落以前は、それこそ人込みをかきわけかきわけ歩くようなさまだったというが、いまは通路を歩くかぎり人にぶつかることはない。広く感じたのも、あるいはそのせいだったのかもしれない。
取引所の7階にあるランチ・クラブも、お昼どきにはウエイターが皿を投げるように給仕していたというかつての姿は、どこにもなかった。空テーブル、手持ち無沙汰のウエイターばかりが目についた。
正直、大活況を呈していたころのウォール・ストリートを私はこの目で見てはいない。しかし、少なくともヤッピー族がマネー・ゲームに狂奔し、キャビアで高級シャンパンをあおっていたころのウォール・ストリートの風景は、失われていることは容易に理解できた。
寺澤さんのつぶやきといい、立会場やランチ・クラブの様子といい、ブラック・マンデー以降の1万5000人のレイ・オフ旋風は、それほどすさまじいものだったのである。
<ハードなビジネス体験と、繊細で暖かいハートと>
寺澤さんとはじめて会ったのは、彼が帰国して直後の87年1月末である。野村證券きっての国際派といわれる寺澤さんに、企業の国際化について話を聞きにいったのである。
生き馬の目を抜く株の世界で、しかも名だたるウォール街のつわ者を相手に、切った張ったの商売をしていた人だから、さぞかし豪快、もしくはバタ臭いイメージの人だろうと思っていた。ところが、実際の寺澤さんは、そんなイメージとはほど遠かった。にこにこしていて、ソフトで、いかにも洗練された感じのする紳士だった。
「人間は悲しいんだよね、ウォール・ストリートで、ケタ違いのカネを稼いでいるような連中が、じつは離婚問題で悩んでいたり、子どもの病気のことで苦労していたりするんだよ」
そのときたしか、雑談の中で、そんなことを寺澤さんはいった。
私は、その繊細なハートにちょっとばかりショックをうけた。と同時に、16年間のウォール・ストリートでのハードなビジネス体験と、それとはまったく正反対ともいうべき暖かいハートをもつ寺澤芳男という人物に、ひどく興味をそそられた。そして、ぜひなんらかのかたちで、寺澤さんの体験を本にして世に紹介したいと思った。それは、ロング・セラー『ウォール・ストリート日記』(主婦の友社)が出版される半年以上も前のことだった。
そんなわけで、私は彼の第2作をプロデュースすることになった。この4月24日に出版された『ウォール・ストリートの風』(ネスコ文藝春秋)がそれである。同書のための取材もあって、今回、寺澤さんとウォール・ストリートを訪ねた次第である。
今度の取材旅行中でハイライトだったのは、メリル・リンチ会長のウイリアム・シュライヤー氏に会ったことだ。そのときのことを、寺澤さんは『ウォール・ストリートの風』の中でこう書いている。
「『あの日――去年の10月19日のブラック・マンデー――は歴史的な日だった』
とビル(シュライヤーの愛称)は話し始める。(略)
『あの事件は〝日食〟のようなものだ。日食はそう長くつづかないし、ありがたいことにそうしばしば起こることでもない』ビルは早口で喋りつづける。(略)
別れぎわ、『年内にダウ2500ドルぐらいまでいくと思う』ともいう。
彼はやはり『ウォール街の懲りない面々』の盟主なのだろう」
寺澤さんはシュライヤー氏を「ビル」と呼び、シュライヤー氏は彼を「テリー」と呼ぶのである。
靴が沈み込むような絨毯が敷き詰められた豪華な応接室で談笑する両人をみていて〝同じ釜のメシを食った仲〟という言葉さえ浮かんできた。アメリカのマネー・ゲームを動かす大物たちとのなごやかなやりとりをそばで聞きながら、ウォール・ストリート論を書くのに寺澤さんほど適した人はいないと、私はあらためて痛感したものだ。そのとき私は、自分の目に狂いはなかったと心の中でつぶやいていた。
<ウォール街生活16年で得た、すごみのある国際化論>
カネに国境はないとよくいうが、まさにその通りである。それを地でいっている証券会社は、国際化せざるを得ない。その国際化の矢面に立ってきた寺澤さんは、日米両国のはざまで、「彼我の差」を目の前に突きつけられ、来る日も来る日も、自己のアイデンティティをめぐって模索を繰り返してきたに違いない。それだけに、彼の国際化論には、決して人を威圧したりしない独特の優しさとはうらはらに、どこかすごみがあるのである。
「ぼくは、日本人は国際化されないだろうと、ひそかに思っている。
心の優しいぼくの大好きな日本の友人たちが、若い人も年配の人も、日本人はもっともっと国際化されなければならないと真剣にかんがえていることをぼくは知っている。そういう人たちを、冷やかすわけにはいかない。ぼくの不用意の一言が、冷水を浴びせることになるかもしれない。だから、本当はいいたくない。でも、ぼくは、日本人は永久に国際人になれないと、ひそかにだが、かなり自信をもって確信している。そして、それでもいいのではないかと思っている」
寺澤さんは、『ウォール・ストリートの風』の「ぼくの国際化論」でこう述べている。
日本人は国際化されない。だがそれでもいい――。これが、彼が16年間のウォール街生活で得た、実際的な、しかし実際的だからこそきわめて重みのある結論なのであろう。
ただ、日本人は国際化されなくても、日本の社会は好むと好まざるにかかわらず国際化されると、彼はいう。その結果、わずかだが1パーセントくらいの日本人は国際化されるだろうというのだ。
「そしてその人たちは、国際化されたことによって日本の社会をいみ嫌い、外国で暮らすことになるだろう。日本には、国際化しなければならないと歌にうたって毎日をすごし、そしてその危機意識で自分たちを支え、相変わらず日本的な思考で国際化されずに、しかしきわめてハッピーに暮らしている日本人が残る。
ただ、日本の社会がかなり国際化してくることは必定だから、それに対応できる程度の語学力とか、包容力とか、忍耐力とか、寛容さというものは身につけていくことになるであろう。
ぼくはそれでよいのだと思っている」
この寺澤さんの吐露は、ウォール・ストリート16年のビジネス体験の総決算の言葉であると、私は受け止めている。
寺澤芳男『ウォール・ストリートの風』ネスコ文藝春秋
『IMPRESSION』(1988年1月号掲載)