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経済ジャーナリスト 片山修 | Osamu Katayama Official Website

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「アジア共栄」理念を示唆する――深田祐介『新東洋事情』文藝春秋

<男物和服と烏帽子の由来>

昨年10月、私は念願の韓国旅行をした。「己の伝統を異国に発見する会」などと少々大げさなテーマを掲げて、学生時代からの友人15人と韓国を珍道中してきた。ソウル2泊、慶州2泊、釜山1泊の旅であった。

30代前半に、私は1カ月間の世界一周旅行をしたことがあるのだが、なぜかアジアには立ち寄らなかった。アジア諸国が時の人ならぬ〝時の国々〟として次第に注目の的になっていく様をみながら、その後も、アジアの国を訪れる機会がないまま、一度はアジアに出かけたいと思いを強くしていたのだ。

訪れてみると、やはり、欧米の国々とはまったく異なっていた。なんの違和感もなく、ある懐かしささえ感じながら、私はソウルの町を闊歩した。田舎にいけば、道端に干してある真っ赤なトウガラシに、少年のころの日本の田園風景が重なったものだ。

欧米でかしこまり、アジアで羽を伸ばす日本人の行動パターンが、一種批判的な意味を込めて指摘されるが、私が感じた懐かしさはそれとは少し違っている。それは深い親近感だった。

この親近感こそが、まさにクセモノなのだが、かといって羽を伸ばす日本人の姿を、単純にマイナスイメージで語っている限り、いつまでたってもわれわれはアジア認識を深められないのではないか。

ただ、韓国人の女性ガイドが談笑のなかで語った、ひどく挑戦的な話に私は少なからずショックを受けた。
「みなさんは日本の男性の和服の由来を知っていますか?」
「いいえ」
「あれは、韓国ではもともと死者に着せる着物だったんです。それを、倭寇が略奪していって日常着にしたんです」
そのガイドは、さらにこういった。
「では、烏帽子の由来は何だと思いますか。それは、韓国の靴下からきているんですよ。日本人は、それを知らないで、頭の上に乗せたんです」

私は思わず、彼女の顔をまじまじと見つめてしまった。私だけではない。さっきまで、ニコニコしながら慶州の寺々を案内してくれた彼女の打って変わった、軽蔑したような口調に、誰もがあ然とした。

<存在するタブーへの鋭い観察眼>

私は、深田祐介さんの近著『新東洋事情』(文藝春秋刊)を読みながら、この韓国体験をありありと思い出した。

「韓国人が必ず日本人にぶつけてくる論理は『秀吉の2度にわたる朝鮮出兵の暴虐』『創氏改姓(韓国姓から日本姓への改姓強要政策)に象徴される、民族の誇りを一顧だにしない植民地政策』『朝鮮戦争で朝鮮民族は血を流したが、日本人は儲けただけ』『GNP比1パーセントしか防衛費に割かぬ日本に対し、韓国は実に6パーセントを防衛費に割いて、北の脅威を身を以て防いでいる』等々でしょう」深田さんは同書でこう書いている。

過去から語り継がれ、いまなお強烈に韓国人の心の中に生き続ける怨恨は、日本人の反論を一切許さない。同書には、韓国に進出しながらも、このような民族感情に行く手をはばまれ、撤退せざるを得なかった日本企業の姿が、かなり鋭い筆で描かれてる。女性ガイドが、日本人は死者の服を着て、靴下を頭にかぶっているのだと、敢えてわれわれ日本人旅行者にいい放った出来事も、「進出した日本企業にとって、韓国は、単純素朴なナショナリズムののたうつ、苦難の土地だった」という深田さんの観察と、どこか一致するのかもしれない。

しかし、正直なところ私自身、死者の着物と靴下の話は半信半疑だった。このことは、あまり人には話さなかった。おもしろい土産話として語るには、なじまない出来事に思えたからだ。韓国人の反日感情の強さにショックを受けたのもさることながら、心の内に韓国の反日感情を語ることの、重いためらいを感じたのだ。これが多分、日韓の狭間に存在するタブーの一片かもしれない。

日韓に限らずアジアには、日本人も口ごもらせるタブーがたしかにある。そう思うと、深田さんがこの書によって開こうとしたアジアへの切り口が、はっきりと見えてくるのである。

<アジアを語る、即ち国内問題を語ること>

深田さんといえば、デビュー作の『新西洋事情』があまりにも有名で、西欧通としてのイメージが強い。現に、日航の社員としてロンドンに5年間駐在した経験をもっている。ところが、近年、小説『炎熱商人』や『神鷲商人』でアジアづいている。

「ぼくは、いまや〝アジアの深田〟だ」

話をする機会があるたびに、深田さんが口癖のようにそういうことを、私はしばしば聞いたことがある。

たしかに『炎熱商人』では直木賞を受賞しているが、『新西洋事情』の深田さんという印象が強烈すぎて、〝アジアの深田〟といわれてもいまひとつピンとこなかった。ところが、今回の『新東洋事情』を読むにおよんで、深田さんのアジアに対する並み並みならぬ関心の深さを、私はあらためて思い知らされた。

「今やアジアを語ることは、日本の国内問題を語ること、といった状況に立ち至っています。国としても社会としても、また企業としても、もはやアジアと直面せざるを得ず、アジアにまつわる問題を避けては、将来が語れません」

あとがきでも述べているように、これが、彼の基本的なアジアを見る立場なのである。

しかし、いまいったように、西欧の民主社会と違って、アジアには多くのタブーが存在する。

「アジアにはあまりにタブーが多い、という気がして、なかなか腰があがらなかった。タブーを書かなければ、アジアを書く意味がないようにおもわれ、そのタブーを書けば、どういう波紋が生ずるか、予断を許さず、気持ちがすくみがちでした」

それは、最近の奥野発言問題にも、如実にあらわれている。それほど日本人にとって、真正面からアジア問題に取り組むことは至難の技なのである。深田さんは、敢えてその難題に挑戦したわけだ。

<巨大な経済力を蓄える21世紀の新興勢力>

深田さんは「アジアを語ることは、日本の国内問題を語ること」というが、まさしくいまの日本社会は、アジアと深くかかわっている。にもかかわらず、われわれは、アジアに対して必ずしも深い洞察力をもっているわけではない。

私にしても、韓国の女性ガイドから、少しばかり激しい言葉を聞かされただけで、あれほど心を乱してしまったのである。韓国人の「日帝支配36年」の歴史からくる反日感情について、あまりにも認識不足といわざるを得ない。おそらく中国、フィリピン、インドネシア、シンガポールなど、日本がかつて支配した国々を訪れたとき、大なり小なり同じような経験をするに違いない。日本人は、決定的にアジア音痴だからだ。

われわれ日本人はこれまで、西欧文明を学ぶためにどれほどのエネルギーを費やしてきたことだろう。それにくらべアジアを知ることに対して、どれほどの熱意を傾けたというのか。それは、いい悪いという問題ではないが、もはやそういう態度ではすまされなくなっている。

いま、日本人に求められているのは、自分たちがこのようにアジアに対してきわめて無知であることを、はっきりと認めることである。深田さんは数々のタブーに挑戦しつつ、そのことを読者に訴えているのだと思う。

「これからのアジアに生きる日本に要求されるのは、まず第一に自己中心的でない、真の『アジア共栄』の理念でしょう。戦時中の自己中心的な五族協和や大東亜共栄圏の陶酔から醒める、という意味では、アジアの多様な価値観、多様な利害関係を理解する、ということではなかったか。

それで次に要求されるのが、細心にして冷静な政治感覚となりましょう。(略)

真の『アジア共栄』を理念として、アジア諸国の利害に眼配り怠りなく、細心冷静の政治感覚を維持すること、激動するアジア経済圏に生きてゆく日本のありかたは、この1点に集約されるようにもおもわれます」

21世紀は〝アジアの時代〟といわれるように、巨大な経済力をたくわえつつあるアジア。この新興勢力抜きにして、日本経済の将来もない。いまこそ、アジアを正面から見る目を養う必要性に迫られている日本人にとって、本書はタイムリーな書である

深田祐介著『新東洋事情』文藝春秋
『IMPRESSION』(1988年3月号掲載)

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