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事実だからこそこの「スパイもの」はおもしろい――B・フリーマントル『産業スパイ』新潮選書
<「決着がついた」と書いた1行が、意外な波紋を招いた>
私がIBMの本を書いたときの話である。ご存知のように、日本人には後味の悪かったIBM産業スパイ事件は、その後、IBM・富士通ソフトウェア著作権紛争にまで発展したが、その著作権紛争をめぐって、拙著『日本アイ・ビー・エムから何を学ぶベきか』(毎日新聞社刊)の中で、「富士通がペナルティをIBMに支払って決着がついた」と記した。
ところが、その本が出版された時点では、「決着がついた」ことは公表されていなかった。当時、それは超極秘事項だった。いまだから話せるが、正直、私は「決着がついた」のを正確に知っていたわけではない。それに近いことは、取材で感触を得ていたが、正しい情報を得てはいなかった。
恥ずかしながら、「決着がついた」と書いたのは、私のミスだった。「富士通がペナルティをIBMに支払って、近く決着がつくだろう」と書くべきだったのだ。なぜ、「決着がついた」と過去形で書いてしまったのか、記憶にないが、思わず筆が走ってしまった……としかいいようがない。まあ、結果的には間違っていなくてよかったものの、冷や汗ものである。
さて、問題は、それからである。
私の事務所に突然、電話がかかってきた。本が出版された直後というより、本屋の店頭に並ぶか並ばないか、という早い時期である。
相手は、富士通の人間と名乗った。
「あの本の〇〇〇ページに、『決着がついた』と書かれていますが、その情報は、どこで得られたのでしょうか」
いきなり核心を突いてきた。
ウカツにも、私は、そのときまで〇〇ページに、そう書いたのを忘れていた。気がついていたら、当然、校正の段階で、直している。
「いや、それは……。いろいろ取材の結果で……」言葉を濁した。
「富士通の人間にもお会いになりましたか」
「取材源については、申し上げられません」私は、型通りに答える。
「富士通のどんな人間に会われたか、聞かせていただけないでしょうか」
「いま言いましたように、取材源については申し上げられません」
電話の主は、その情報が漏れたのではないかと疑っている様子だ。仮に、そうだとしたら、どのあたりから漏れたのか……。それを知りたい風であった。
電話は、それで切れたが、いささか気味の悪い電話だったので、私は〝ある筋〟に再取材をかけてみた。
「いや、仮に富士通だとしたら、相当レベルの高いところからの電話だよ」と、教えてくれた。
というのは、IBMと富士通の間で、基本的に和解が成立し、もっか細かい詰めをしているが、それを知っているのは両社でも、ごく限られた人間で、文字通りの超マル秘事項。たしか、そのときの話では、1カ月後に記者発表するという話だった……。
<ケニア経済の悪化は、にせもの殺虫剤のせいだという>
それにしても4500行近くある拙著の中のたった1行の文章に注目し、ただちにリアクションを起こすというのは、当時、秘密交渉が漏れることにいくらナーバスになっていた当事者とはいえ、相当なものである。コンピュータ戦争の聞きしにまさる激しさを、垣間みる思いがした。
しかし、私の体験などはタカが知れている。世の中では、壮烈な産業スパイ戦争が演じられているのだ。そのことを教えてくれるのが、B・フリーマントル著『産業スパイ』(新潮社刊・新庄哲夫訳)だ。同書は、サブタイトルに「企業機密とブランド盗用」とあるように、ハイテクを中心とする現代の知的所有権をめぐる産業スパイの暗躍ぶりをリアルに描いている。だいたい、日本人には、同書のまえがきの冒頭の1行からしてショッキングである。
「日本の裕仁天皇は、にせものエルメス・ネクタイをしめて公式写真を撮られた」
著者によると、こうしたにせもの品は、枚挙にいとまがないという。実際、私たちの周囲にも、ルイ・ヴィトンからロレックスまで、にせもの品がいっぱい氾濫している。
しかも、このにせものは、ときには大きな被害をもたらすのだから、油断できない。現に、ケニアが経済的な災厄にみまわれたのも、にせものの殺虫剤を使ったためにコーヒー栽培が壊滅したからだという。
「欧米の海賊商法取締機関が行った最新の推計によると、あらゆる種類の製品盗用は世界貿易のなかで3パーセントを占める。ところが、アメリカでもイングランドでも香港でも、そのような数字は低すぎると指摘された。
アメリカ情報機関筋の推定によれば、にせものビジネスの損害は年間500億ドル以上に達し、その金額は上昇しつつあるという。「しかし、〝にせもの造り〟といっても、数千億ドルに達する産業技術泥棒にくらべれば、氷山の一角にすぎない」と著者のフリーマントルは語る。
断るまでもなく、ここで著者のいう「産業技術泥棒」とは、ハイテク戦争における産業スパイのことである。
たとえば、ソ連圏産業スパイのナンバー・ワンのリヒャルト・ミューラー。そういえば、戦前、日本を舞台に暗躍した、コミンテルンの〝政治スパイ〟ゾルゲも、名前をリヒャルトといった。ふたりともドイツ系である。ミューラーは、モスクワから北へほぼ10キロにある、外国人立ち入り禁止のハイテク都市ゼレノグラードで訓練され、さらにモスクワの精密機械・コンピュータ技術研究所で勉強し、特命を受けて渡米、カリフォルニア工科大学で技術研究の総仕上げをしたといわれている。
ただ、それ以外の彼に関するデータはないらしい。「1948年に西ドイツで生まれたと推測されながら、出生、両親、学校教育、幼少時代について何ひとつ手掛かりが残っていない。明らかになったのは、ミューラーがこの15年間に3000万ドル相当のアメリカ、西ヨーロッパのハイテクをソ連に移出したという事実だけである」――という。
<西側から持ち出された最新設備と機器のおかげで、ソ連は半導体工場を作れた>
ミューラーは、南アフリカ、スイス、西ドイツなど、全世界に迷宮のように会社網を設けた。そしてその会社の数は、60社におよんだ。これらの会社がハイテク密輸ネットワークを形成し、ハイテク製品をどんどんソ連に送り込んだという。
一例をあげよう。彼は、米カリフォルニア州シリコン・バレーで、ハイテク密輸業者フォルカー・ナストと手を組み、半導体の製造設備の密輸を企んだ。密輸ルートは、じつに手がこんでいた。
「半導体の製造設備は『最終ユーザー』をカナダとする証明書と一緒にカリフォルニアを発し、大陸を横断して東海岸のニュージャージーを経由、モントリオールで証明書が改竄され、出荷先は西ドイツのハンブルクに変更される。受取人は『ライメル・クリマテクニク』社だった。ライメル・クリマテクニク社とは、フォルカー・ナストの隠れ蓑であった」
製造設備の出荷先は、ハンブルクで再び変更された。そして、スイスのダミー会社に変えられたりした。
西ヨーロッパに着くと、ハイテク製品は事実上、移動の阻止が不可能になる。国際道路輸送協定(TIR)があって、出荷先の当局が積極的に違法性がないと保証すれば、各国での通関検査が免除されるのだ。ミューラーは、TIR加盟のトラック輸送隊を組織化し、モスクワの「全ソ工業機械輸入公団」や「全ソ工業技術輸入公団」につぎつぎとハイテク製品を送り込んでいった。
ある情報関係筋は、著者にこう語ったという。
「きゃつがアメリカのハイテクをどれくらい持ち出したか、われわれはこんりんざい全面的に把握することはできないだろう」
つまり、その規模は、ケタはずれに大きかったのだ。事実、ソ連のハイテク都市ゼレノグラードに、半導体工場をそっくり建てられるほどの設備や機器が、西側から持ち出された。ことによると、ひとつ以上の工場が建てられるほどで、おまけにそれらは世界でも最新型のものであったという。
こうしたソ連圏産業スパイの暗躍ぶりを読んでいると、社会主義国の技術革新の決定的な遅れを、あらためて認識させられる。
「工業技術をめぐるスパイ活動は、厳密にいって何も東西間だけに限られた戦争ではない。それ以外に、やはり二次的なスパイ戦争が決然と戦われているのである」
として、IBM産業スパイ事件についても、1章が設けられている。
同事件でオトリ捜査が行われたこともあって、「日本側は依然として、彼らが非合法の状況に不法にも引きこまれたのであり、彼らが巻きこまれた事件は、シリコン・バレーというハイテク、高度競争社会で雨後の筍みたいなコンサルタント業者の間に続発する日常茶飯事だと感じている。が、日立事件のテープ類を聴いたかぎり、それは論理的に支持しようとしても支持しにくい議論である」と、著者は批判している。
アメリカ政府が知的所有権の保護を国家戦略として打ち出してきた今日、技術大国日本が、知的所有権についていかに考えるべきかについて、同書は、その材料を提供してくれる。いや、それよりなにより、この本には産業スパイ小説を読むようなおもしろさがある。
B・フリードマン著 新庄哲夫訳『産業スパイ』新潮選書
『IMPRESSION』(1989年5月号掲載)