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現代人ならではの消費行動を過激に鋭く分析した待望の「消費論」が現れた!――大塚英志『物語消費論』新曜社
<カイカイ病という難病に毒されているのは私だけではないだろう>
私は、病気である。病名はカイカイ病。別に、「カ」と「イ」の間に「ユ」が抜けているわけではない。カイカイ病とは、漢字で書くと買い買い病で、症状としてはやたらモノを買いたがる悪いクセを指し〝難病〟の一種である。
発病するのは、たいてい仕事が忙しいときだ。あまりの忙しさにストレスがたまって爆発寸前となる。そのとき、街へショッピングに走って出かけ、衝動的に買いまくってしまうのだ。たとえば背広でも、ポロシャツでも、靴でもなんでも、まとめて買う。
「あっ、これは色がいいなあ」「ウン、これも、ちょっと変わった柄でいいなあ」といいながら、年がいもなく、それに懐具合とも相談しないで、何着や何足も〝赤いカード〟で買い込んでしまう。あとで、丸井から電話で指定銀行の預金不足を指摘され、あわてて払い込みにいったこともある。
なぜ、私のバカバカしい〝難病〟の話をしたかというと、現代社会において「消費」は重要なテーマであることをいいたかったからにほかならない。
実際、私たちは今日、あらゆるモノを貪欲に、そして限りなく消費する。モノから情報に至るまで、新聞、雑誌、本、広告、映画、テレビなどのメディアに駆り立てられて、ひたすら消費しまくる。まさしく消費社会の真っ只中に、いま、私たちは生きているのだ。
とはいえ、果てしない消費の欲望に身をまかせながらも、「消費とは何か」とか、「消費と欲望の関係」とか、あるいは「モノを買うことで、私たちは本当に幸せになるのだろうか」などといった基本的な疑問から、逃れられない自分を発見するのである。
<「資本主義社会が死ぬほど好き」という、新世代の書き手>
一時、消費文化論が流行したことがある。そのとき、キーワードとして登場したのは、「少衆」「分衆」「差別化」「感性」などという言葉で、論を展開したのは主としてPR会社のスタッフや企業のマーケティング関係者、そして一部の統計学や経済学の学者。マーケティング論や記号論から語られたのだが、いってみれば、モノを売る側からの消費論が圧倒的に多く、肝心の消費者の側に立ったそれは少なかった。
かねてから、それがカイカイ病患者の私の不満とするところだったが、モノを消費する人間を鋭く分析した過激かつ興味深い書物が現れた。大塚英志著『物語消費論』(新曜社刊)である。
著者は、いきなりガツンと次のように書いているのだ。
「今日の消費社会において人は使用価値を持った物理的存在としての〈物〉ではなく、記号としての〈モノ〉を消費しているのだというボードリヤールの主張は、八〇年代末の日本を生きるぼくたちにとっては明らかに生活実感となっている。ぼくたちは目の前に存在する〈モノ〉が記号としてのみ存在し、それ以外の価値を持つことがありえないという事態に対して充分自覚的であり、むしろ〈モノ〉に使用価値を求めることの方が奇異な行動でさえあるという感覚を抱きつつある」
著者は筑波大学で民族学を専攻している。卒業のとき、恩師の宮田登氏から、「発想がジャーナリスティックすぎる」といわれて、コミック、ファミコン誌のフリーの編集者になったという経歴の持ち主。私のような旧世代の人間と違って、「多分、ぼくは資本主義社会が死ぬほど好きなのだ」と、憶面もなく、語ってはばからない、新世代の書き手である。
「確かにこのいささか度の過ぎた消費社会というものに人々が懐疑的になりたくなる気持もわからぬではない。多分、いつかバチが当たることぐらいはぼくも十分自覚している」と著者はいう。
「しかし、だからといってそれから逃れようとするあまり例えばいきなり反原発やエコロジーの類に走るのも考えものである。放射能がこの都市の上空に流れてきたら大きく深呼吸して真先に死んでしまうことが、この日本という国に生まれて三十年間浮かれ続けてきたことに対する責任の取り方というものではないのか」
このように、現代の不毛をわが身にとことん深く刻み込む覚悟でいるのだ。
では、この「消費社会の中でしっかりと朽ち果てることを願っている」著者の目に映る「〈モノ〉が記号としてのみ存在」し、「〈モノ〉に使用価値を求めることの方が奇異な行動」とは、いったい、いかなる消費状況をいうのか。
<子供たちが買っているのは、「チョコ」ではなくその背景にある「物語」だ>
著者は、1987年から88年にかけて、子供たちの間で爆発的にヒットした「ビックリマンチョコレート」の例を示している。子供たちは、「ビックリマンチョコレート」を買うと、チョコレートをためらいなく捨てた。商品本来のモノであるチョコレートは不要。「ビックリマンチョコレート」において、現実に消費の対象になったモノはオマケ付きのシールであったと、著者はいう。
シールには1枚につきひとりのキャラクターが描かれており、シールをいくつか集めて組み合わせていくと、神話的叙事詩を連想させる大きな物語が出現してくる。消費者である子供たちは、この大きな物語に惹かれて、チョコレートを買い続ける。このような奇妙な消費は、じつは、コミックやアニメ、あるいは玩具といった子供を対象とした商品に、きわめて鮮明にみられる。
このような事態を、著者は「物語消費」と名付けるのだ。
たとえば、空間プロデューサーが作るディスコにしても、そうだという。「地球が核爆発を起こし、タイムスリップして見知らぬ惑星に到着した。この廃墟のような惑星は実は何億年も昔の地球であった」とか、「近未来社会、文明は新たな創世紀を迎えた云々」――などと、空間プロデューサーの手にかかった店には、必ずこのようなSFもどきの物語がコンセプトとして用意されている。
「空間プロデューサーの仕事は、ファミコンを初めとするゲームソフトを考案するゲームデザイナーと大変よく似ている。ゲームソフトの前提として〈物語〉がコンセプトとして存在することは既に知られている。ビデオゲームがインベーダーゲームから加速度的に進歩するきっかけとなったのは、〈物語〉をコンセプトとして採用するようになったからである」
実際、いまのゲームソフトには、インベーダーが前進してきたから、単に撃ち落とすのではなくて、敵は何者であるか、それと戦う自分は誰であるか、戦場となっている星はどこなのか、などという物語が不可欠である。
「ディスコの入り口で『この店は難破したロケットで…』という説明があるわけではない。コンセプトは雑誌の記事等で断片的に流されている。『近未来をイメージしたらしい』『照明は宇宙船らしい』といった断片的な情報をかき集めると、ディスコの空間に込められた〈物語〉が見えてくる。気がつくと〈物語〉的空間に身を置いているという意外性が、両社に共通する仕掛けであるといえる。
ゲームにしろディスコにしろ、〈物語〉と無縁であった商品のコンセプトとして〈物語〉を採用し、それに従って再構成したものがヒット商品となる」
<もはや生産者はいない、「物語消費」最終段階に現出する光景の衝撃>
しかし、このような物語消費を前提とする商品は、極めて危うい側面を持っているという。「つまり、消費者が〈小さな物語〉の消費を積み重ねた果てに〈大きな物語〉=プログラム全体を手に入れてしまえば、彼らは自らの手で〈小さな物語〉を自由に作り出せることになる」からである。
現実に、有名コミックキャラクターの人間関係をそっくり使って自分の物語を描く同人コミック誌が出現している。たとえば、『少年ジャンプ』の連載コミック「キャプテン翼」の主要キャラクターを使ったマンガが自費出版の同人誌で書き始められ、いまや〝翼同人誌〟は百何十種類も出ている。商品そのものを消費者自身が作り出し、自分たちで勝手に消費するという不気味な光景が出現しているのだ。
「そうなった時、〈商品〉の送り手は、消費のシステムから排除され、自分たちの作り出した商品を管理できなくなってしまう。それゆえ〈物語消費〉の最終段階とは、〈商品〉を作ることと消費することが一体化してしまうという事態を指す。もはや生産者はいない。自らの手で、消費する無数の消費者だけがいる。それが記号としての〈モノ〉と戯れ続けた消費社会の終末の光景なのだということだけは、しっかりとここで確認しておこう」
著者は、このような物語消費というユニークな視点から、少年少女たちが熱中するマンガ、アニメーション、ゲームソフト、DCブランド、都市のウワサばなし、そして昭和天皇などについて、分析を試みているが、全編読み出したら止まらないというほど刺激に満ちている。消費文化論というより、現代社会を透視する好著である。
大塚英志『物語消費論』新曜社
『IMPRESSION』(1989年9月号掲載)