金沢 金沢の文化の粋に触れ、大人の時間に浸る
食は旅に在り――である。
金沢は、毎度お馴染みの中高年5人組にとっても、憧れの地である。出かける前から、やれどんなコースで巡るのか、どこに泊まるのか、金沢美人に会えるかなど、喧々囂々の議論になった。しかし、何分にも食い意地が張っている5人組だけに、議論の中心は、いつもの如く、どこで飯を食うか。その一点に絞られたのである。
着いた日の食事先は、日本料理「銭屋」である。選んだのは、「肉食恐竜ティラノサウルス」こと「現代の魯山人」Zさんである。ただし、今回、食事担当大臣の彼が選んだのは、大好きな肉ではなく、磯のアワビ。「銭屋」の名物料理である。
金沢の繁華街片町の裏道をいくと、まるで京都の先斗町か、祇園の趣。打ち水が施された「鍵屋」の玄関を入るや、お香のほのかな香りが鼻腔をなでる。
「ウーン、さすが金沢だわな。舌ではなく、まず鼻から攻めてきたな」と、ウルサ型のQさん。さらに、座敷の床の間には、竹で編んだいかにも古そうな花器に、木苺などの山野草が生けてある。目からも楽しんでもらおうという仕掛けだ。そして、酒を注文すると、白い木肌も美しい桶に入った冷酒が運ばれてきた。氷が浮く桶には真っ赤な薔薇が一輪、もうひとつの桶には紫色の都忘れの花が添えられているではないか。
「いや、嬉しいねぇ、憎いねぇ、感動だねぇ。金沢はアート感覚が発達しているんだよ、ウン……」と、Qさんは、すっかり興奮気味である。
遊び心に満ちた町
町を歩けば、いたるところに美意識が感じられる。それは、歴史ある日本の街が持つ「気配」といっていい。町にゴミがないのも、金沢人の心配りだろう。
「鍵屋」の近くの、土塀が長く連なる長町界隈は、藩政時代、藩士たちの住居であったというが、そぞろ歩くにつれ、たちまちある種の懐かしさに包まれるのだ。
中高年5人組は、何事にも一言多く、やかましいのだ。その連中が、沈黙を守って、長町界隈を散歩するのだから、確かに金沢の文化度は高いといわなければならない。
文化といえば、金沢の建築文化の代表は、加賀藩第代前田齊泰公が造営し、母眞龍院の隠居所として使用された重要文化財「成巽閣」だ。これにも、5人組は、アートを感じましたな。
御殿の豪華絢爛さもさることながら、障子の腰板に鮎、亀、蝶などの絵がほどよく配置され、描かれている。そして、「鮎の廊下」、「亀の間」、「蝶の間」と呼ばせる。そのポップ感覚、遊び心には、負けましたな。「昔の人もやりますなぁ」と、中高年カメラマン氏も感心する。
「この建物は、文久3年、すなわち1863年に建てられました。まさに幕末ですね。あの天井についている照明器具は、のちの大正天皇がここに6日ほどお泊りになられた前年の明治41年にアメリカから輸入されたものです」と、案内して下さった「成巽閣」館長の吉竹康雄さん。
見ると、じつにアンティークなシャンデリアだ。知的体育会系のYさんは、すかさずいいました。
「こんなのは、秋葉原にいってもないね」
金沢美人との出会い
さて、次々と饗せられる「銭屋」の懐石料理の繊細な味に、5人組は感服しっ放しだ。とりわけ、美味しかったのは椀物で、しんじょは、絶品でしたな。気品すら感じました。
「うちでは、すり身には、真鯛しか使っていません」
そういうのは、2代目若主人の髙木慎一朗さんで、聞けば、京都の「花*吉兆」で修行したとか。なるほどと合点する。(* 正式には「土」に「口」の吉)
大きなアワビが九谷焼の皿に鎮座ましましている。アワビの一片をつまみ、その切り口をしげしげと眺めやる。肌のきめ細やかなること、ややピンクがかった色の艶かしさ。そして、軟らかからず、硬からず。その美味なること、言葉を失うとはこのことか……。
想像の域を出ないものの、金沢美人の肌そのものと断言していい。その証拠に、5人組の目は、心なしか潤んでいるではないか。
また、大工町の日本料理「やさ*喜」は、「創業が明治32年で、もともと卯辰山の峠のお茶屋がはじまり」と、四代目主人の矢崎昭男さんはいう。名物〝ぶりハム〟は、矢崎さんが半年かけて開発した珍味だ。(* 正式には「七」が三つの草書体)
文化あふれる金沢は、一説によると、「医者、学者、芸者の町」というそうだが、その元芸妓さんの金沢美人にお会いしたのである。想像ではなく、念願を果たして、ついに金沢美人に出会ったのである。場所は、「ひがし茶屋街」である。ここは、加賀藩が文政3年(1820年)、近辺に点在していたお茶屋を集めて町割りしたのが始まりという。現在、この茶屋街は、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
「うちの建物は、文政3年、今から184年前に建てられたんです。お茶屋は、普通に住む家と違って、柱が少ないなど、開放的なつくりになっています。したがって、保存が難しいのですが、この『志摩』は、創建当時のままに残っていますので、一軒だけ国の重要文化財に指定されているのですね。まあ、昭和40年頃までは、この茶屋街も、ずいぶん賑やかだったんですがねぇ」
と、「志摩」の島謙司さんは、おっしゃるのだ。ちなみに、今も、何軒かのお茶屋が営業しているという。
お会いした金沢美人は、この「ひがし茶屋街」で、ワインバーを開いている、和服姿がお似合いの「照葉」の吉川弥栄子さん。
「このお店の建物も、改造はされていますが、文政年間に建てられたんですよ。芸妓のときにソムリエの資格を取ったんです。バーを開いて、丸6年が経ちます。今、金沢の芸妓さんの数ですか、そうねぇ、金沢全体で50人を切るんじゃないでしょうか」
かくして、食や会話を楽しむうち、金沢の夜は更けていったのである。