函館 文学のかおり宿し 青函連絡船の哀愁漂う 北のロマン・函館
今回の旅も「食」で始まった。
東北新幹線八戸駅から在来線の特急で函館にやってきた中高年4人組が、まず向かったのは、例の如くレストランだ。
JR函館駅から徒歩1分の函館駅前電停から谷地頭行きの市電に乗り、青柳町で降りる。そこから1分も歩けば白くモダンな建物が見えてくる。フレンチレストラン「唐草館」だ。
大正11年に建てられたという、淡い浅緑色の建物は、かつて医院だったという。
レストランのオーナーは、フランスで修行し、箱根のホテルで経験を積んだ丹崎仁さん。オーナーシェフとして5年半前に開業。妻の文緒さんはソムリエである。
「料理は、決して飾り立てずに素材そのもののよさを引き出し、いかにおいしい状態で出すかということに気をつかっています」と、仁さんはいう。
真鱈の白子の炙りや真鱈の昆布〆など、手の込んだ料理が並ぶ。日本人が食べやすいように、わかりやすいようにと、考え抜かれた一品揃いだ。
とりわけ、フォアグラのフランは、香ばしく、絶妙の焼き加減で仕上げられていて、生臭さをまったく感じさせなかった。津軽海峡天然真鯛のロワイヤル仕立てがまた、美味だ。フレンチならば、通常、真鯛はバターを使って調理するが、日本料理の茶碗蒸しからヒントを得たという和風仕立て。
「うちのフランス料理は、バターとかクリームを使った料理が多いと思われがちですが、うちでは素材を活かした食べやすい料理をお出ししたいと思っています」
文緒さんは、そう説明する。
ちなみに、十三種類のデザートとパンは、文緒さんが担当している。
「これからの季節は蝦夷鹿がおいしい」と、ご主人はいう。
ステーキでも、カルパッチョでもいただける新鮮な鹿は、これからが本番だと聞いた、中高年たちは、思わず舌なめずりをしたものだ。
夜は、湯の川温泉まで足をのばし、名店「幸寿司」で、地元の新鮮なネタの寿司を楽しむ。後述する立待岬の沖でとれたのか、生きた透明なイカは、じつに甘かったですな。
函館を愛した偉人たち
再び市電に乗り込み、終点、谷地頭でおりる。中高年たちは、徒歩で20分の立待岬に向かって元気よく歩き始めた。大人の遠足である。
岬の突端に向かう途中、石川啄木一族の墓に寄る。
石川啄木が函館に住んでいたのは明治40年5月から同9月までと短い期間である。「死ぬときは函館で……」というほど啄木は函館を愛していた。啄木夫婦とその子ども、両親は大正15年に建てられた、この墓碑に眠っている。
墓碑に刻まれた「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたわむる」の歌に、中高年4人組は、感慨をあらたにするのだ。「この歌を初めて読んだ、高校時代が思い出されますな」と、知的体育会系のYさん。
函館山の南に位置する立待岬からは、遠く津軽半島の山並みや、近くの大森浜の美しい海岸線が一望できる。夜にはイカ釣りの漁り火が間近で眺められる。
立待岬を訪れた与謝野寛、晶子も、途中、啄木の墓に立ち寄ったらしい。昭和6年、啄木の墓参りに訪れた際、詠んだ歌が、立待岬の一角に建てられた自然石の歌碑に刻まれている。
「浜菊を郁雨が引きて根に添ふる立待岬の岩かげの土 寛」
「啄木の草稿岡田先生の顔も忘れじはこだてのこと 晶子」
立待岬は、素晴らしい景観とともに、函館の文学スポットだ。
文学といえば、赤レンガ倉庫街の近くにあるのが、「箱館高田屋嘉兵衛資料館」だ。
まっとうな中高年であれば、司馬遼太郎が書いた小説の一冊や二冊、いや何冊も読んでいるだろう。その代表作が、全六巻からなる「菜の花の沖」だ。この小説の主人公の高田屋嘉兵衛が、箱館(現在の函館)に北前船でやってきたのは1796年である。
その後、彼は北方開発や遠洋漁業の基礎を築き、「いまの函館があるのは高田屋嘉兵衛のおかげ」とまでいわれている。ご存じのように、高田屋は、江戸と箱館を結ぶ東回りの航路、エトロフへの航路開拓など精力的に活動した。箱館の大火の際、自らの店舗が類焼しても、救済活動を行い、窮民に物資を与え、木材や日用品を元値で販売したという。「高田屋嘉兵衛を現代に甦らせた、傑作小説でしたな」と、自称教養派のXさん。
高田屋嘉兵衛資料館の近くには、社団法人北方歴史研究協会「北方歴史資料館」もある。理事長を務めるのは、高田屋嘉兵衛から数えて7代目の高田嘉七さんだ。高田屋古文書館と呼ばれるように、高田屋に伝わる古文書類が多く展示されている。
想いをつなぐ連絡船
さて、函館港とくれば、青函連絡船が思い出される。明治41年から80年もの間、函館と青森を結んでいた、その青函連絡船も、昭和63年の青函トンネル完成とともに姿を消した。青函トンネルの完成によって移動時間が連絡船の3時間50分から2時間と大幅に短縮され、その役目を終えたのだ。
その最後を飾った八隻のうちの一隻、摩周丸が、現在、函館港に係留され、「青函連絡船記念館摩周丸」として一般公開されている。同記念館スタッフの砂子賢朗さんは、もとはといえば、連絡船のタグボートの船長。さらに、その前は、SLの機関助士だった。
「私の人生は、SLが半分ならば、船も半分、半端な男なんです」
と、砂子さんは笑う。
「運命って不思議ですよ、まったく。生粋の船乗りが後片付けできず、わしみたいな半端者が最後まで残って連絡船の後始末をし、いまも船に乗っているんですから」
船のブリッジに立ち、そんな話を聞きながら、海を眺めやると、なんだか船がいまにも動き出しそうな気がするではないか。
「そうだねえ、動いて欲しいよねえ……」
砂子さんは、ポツリと語った。