酒田 北前船の栄華を誇る湊町・酒田を逍遥する
女優・吉永小百合さんがイメージキャラクターをつとめる、JR東日本の「大人の休日クラブ」ほど、中高年を旅へと誘うコマーシャルやポスターはないだろう。
人生を積極的に楽しむ「大人の休日倶楽部」の会員代表とし登場し、中高年を始め支持を受けている。50歳を過ぎ、徐々に自由な時間を手に入れるようになる頃に、「これからをどう過ごすか」をやさしく教えてくれているようだ。。
これまで、伊豆白浜の海岸や、山形県の秘湯「銀山温泉」などで撮影されているが、どれも「大人の旅への誘い」として印象深いものばかりだ。
そんなわけで、今回の旅は、現在放映されている山形県庄内地方を舞台にしたTVコマーシャルで登場する観光ポイントを“追体験”しようというのが狙いである。
さて、酒田市とくれば、本間家である。「本間様にはおよびもせぬが、せめてなりたや殿様に」といわれたほど、日本一の大地主であった本間家は、いまにその繁栄ぶりを伝えているのだ。
「山形の庄内藩は、南が鶴岡、北が酒田というように2極に分かれ、鶴岡に本城が置かれていました。鶴岡が武家の町とすれば、酒田は商人の町であったんですね。ただ、庄内藩を治める酒井家は、徳川四天王の一角を占めていましたから、特別に許され、酒田にも出城の亀ヶ崎城が置かれていました」
そう歴史から説き起こし、説明してくださったのは、いかにも実直な吏員といった印象の酒田市立資料館館長・小野忍さんである。「なるほど、酒田は商都か。やはり、年を取ると、ルーツというか、歴史に興味がわきますな」と、一言居士のQさんは、納得した表情。
江戸時代には、最上川の船運と、北前船の海運を基盤に発展し、「西の堺、東の酒田」といわれるほどで、その後、酒田は明治になっても殷賑を極めた。「山居倉庫はその証ですね」と、小野さんは言葉を継ぐのだ。
「明治26年に取引場法が施行されたのを機に、酒田にも米穀取引場が置かれて、米の保管倉庫として建てられたのが、山居倉庫なんですね」
軒を連ねる倉庫群、黒い板壁、緑濃いケヤキ並木。コマーシャルを始め、様々なシーンで紹介されているが、じつに美しく、印象的。「何度きても、ここは心やすまるよね」と、知的体育会系のYさん。歩くテンポは、いつのまにかゆっくり、ゆったり。
「酒田は裕福だったから、食の世界も充実しているわけだ」と、グルメ派のZさんの話題は、つねに“食の太道”に流れる。
たとえば、酒田のとんかつ。近年、めきめき売り出し中なのが平田牧場で、東京にも進出している。鹿児島の「黒豚」に対抗して、ランドレース、デュロック、バークシャーなど3種類の異なる品種を掛け合わせた「平牧三元豚」を開発。
「肉質のいい豚、繁殖の優れた豚、健康な豚、サシの入りやすい豚をうまく掛け合わせたんです。その結果、肉はきめ細かくながら、しっかりした歯ごたえもあり、かつあっさりして上品、甘みのある味が実現したんですね」
と、平田牧場外食本部とんや店長の斎藤純さんは自慢する。
170㌘のロースかつを食したが、確かに、サクサクし、甘みがあって、サッパリ。舌が踊りましたな。
豪商の面影を伝える本間家旧本邸
本間家といえば、豪商の面影を今に伝えるのは、本間家旧本邸であろう。本間家3代目の光丘が、いまから239年前の明和5年(1768年)に、幕府の巡見使を迎えるための本陣宿として新築し、藩主の酒井家に献上した武家屋敷である。
2千石格式の長屋門をくぐって、まず目につくのは、玄関前の赤松。「おおっ!」と思わず声を発し、のけぞるほど、幹の太さといい、枝振りといい、ご立派。樹齢300年から400年というのにふさわしい貫禄だ。
「建坪200坪、23部屋を数えます。天井までの高さは、3・3㍍あります。昭和28年に山形県の文化財に指定されました」
と、本間家直系で、本立信成社長・本間万紀子さんが直々に邸内を案内し、じつに丁寧に説明して下さったのである。
屋敷の中は、武家と商家とに厳然と分けて普請されている。玄関が違っているし、使われている材木からして、武家づくりの部分がヒノキ、商家づくりの部分が主に杉と松が使われているといった具合だ。
「巡検使が江戸に戻ったあと、本間家が屋敷を酒井家から拝領し、昭和20年まで住んでいました。その後、屋敷は、酒田市に貸していてここを開館したのは、昭和57年なんですね」
このほか、本間美術館も、往時の繁栄を知ることができる。酒田の歴史を知る上で、、はずせないスポットだ。
「本間家は、厳しい時代を乗り切って、“御下屋敷”と呼ばれていた別荘を、昭和22年に本間美術館として開館したんです。私立美術館としては、戦後一番早い設立だったと思います」
と、財団法人本間美術館館長・田中章夫さんはいう。
文化10年(1813年)藩主酒井候のために造築された別荘は、昭和天皇が摂政の宮のとき、ご宿泊された由緒ある「清遠閣」と庭園「鶴舞園」からなり、時の経つのを忘れさせる空間だ。
ちなみに、本間家は戦後、農地解放や相続税などによって、3000町歩近い田畑を失ったといわれている。「無常というか、有為転変ですな」と、Qさんはつぶやく。
再び食に戻って、酒田のラーメン。トビウオでだしをとった、醤油系のラーメンで、「三日月」「満月」「ゝ月(ちょんげつ)」など名店があると、ラーメン博士でもあるZさんが解説。初日、老夫婦の経営する「三日月」、2日目ワンタン麺の「満月」へ。いずれも、じつにオーソドックスな醤油ラーメン。懐かしさを誘う味だ。
「相馬樓」は新感覚の料亭
酒田は、湊町を反映して色町が充実していた。多くの茶屋が軒を並べ、その賑わいは諸国に知られる。庄内一の料亭として、江戸時代から続いてきた「相馬屋」は、その代表格だったが、ついに平成7年に廃業に追いやられる。
しかし、捨てる神あれば拾う神あり、翌8年に登録有形文化財に指定されると、修復保存の声が高まり、例のとんかつの平田牧場が経営主体となって、12年に「相馬樓」と名を変え、修復開樓したのだ。
単に、料亭を昔どおり再開したのではなくて、新感覚で、まったく新しい空間を創造したというべきか。庭や建物はそのままに、室内を演出。金、銀、赤など、きらびやかに飾られている。畳も一部、紅花で淡い淡い桃色に染められているではないか。異空間である。
しかし、渋い古風な料亭とは違って、その異空間に身を置くと、北前船が往来し、湊町・酒田の色町のかつての栄耀栄華が目に浮かび、歌舞音曲などのざわめきが耳によみがえってくるようではありませんか。
よみがえるといえば、「相馬樓」の看板の「舞娘(まいこ)」さんは、解散話が出ていた技芸組合を惜しみ、平成2年に「伝統ある料亭文化を残そう」と会社組織による「舞娘さん制度」が創設され、奇跡的に復活したのである。
最盛期150人を数えた芸者さんは、「いま、私一人かしら」という力弥さんが現在、20代の3人の「舞娘」さんに芸を教え、育てているのだ。参考までに、「相馬樓」では、お昼に「舞娘」の踊りつき「舞娘弁当」(3500円)を売り出している。
金屏風を背に「酒田舞娘」が踊る
コマーシャルの中でも、「舞娘」さんの艶やかな様子が紹介されているが、「これは、『舞娘』体験をせずして、酒田を語ることなかれ……ということですわな」と、Qさんはのたまう。「そう、酒田の伝統芸能を応援しなくては……」と力を込めるのは、教養派で、真面目人間のXさん。このわけのわからない、かつ勝手な理屈のもと、珍しく中高年4人組は衆議一決、夜の席に彼女たちを呼ぶことに相成った次第である。
宵闇迫る刻、酒田市内の料亭「大谷閣」の席に、お三味線の力弥姐さんと、憧れのあや乃さん、智弥さんの2人の「舞娘」さんがやってきた。
金屏風を背に踊りも披露してくれたが、その初々しいこと、もう、こちらが緊張しましたな。彼女たちが観光客に人気があるのは、むしろ、プロらしからぬ、この初々しさにあるのだろう、と納得しました。
酒田は、ほんに味わい深い街である。