日本経済新聞の文化面に毎日掲載されるコラム「私の履歴書」は、
今月、インドのタタグループの名誉会長、ラタン・タタ氏が書いています。
インドの財閥の内部について知る機会は、なかなかありません。
毎日、興味深く読んでいます。
26日は、「ナノ『庶民にクルマを』世界最安」として、
08年に発売した超低価格車「ナノ」のストーリーでした。
日本円にして約20万円で発売された「ナノ」は、
当時、インドでもっとも売れていた、マルチ・スズキの
「マルチ・800」と比較して、約2分の1という廉価でした。
まさに、「驚きをもって世界に迎えられた」(タタ氏)のです。
当時、日本で自動車業界にインタビューにいくと、
必ずといっていいほど、「ナノ」の話題が出ました。
ただ、サイドミラーやワイパーが一つしかないとか、
窓はハメ殺しだとか、ブレーキがお粗末で高速道路が走れないとか、
悪口ばかり聞きました。
実際、当時の先進国メーカーからは、信じられない仕様だったのです。
日本の大手自動車メーカーは、総じて、「あんなものは車じゃない」
「競合車をつくる気はない」「まったく影響はない」と、
小馬鹿にするような反応だったのを記憶しています。
しかし、では、「ナノ」をつくったタタは、一体、何を考えていたのか。
「私の履歴書」によれば、ラタン・タタ氏は、
家族を乗せたバイクが目の前で転倒するのを見て、
「安くてインドの交通事情に適した新しい概念の乗り物を、
インド人の手で開発したい」と考えたといいます。
その乗り物を、二輪と四輪の間に位置づけることで、
新規需要を掘り起こすことを狙いました。
「それが家族が安全に移動する交通手段にもなる」というのです。
00年前後から開発を開始し、試行錯誤を続け、08年の販売に至った。
「ナノ」は、ラタン・タタ氏の強い意思と、
時間をかけた研究開発のたまものです。
「ナノ」のプロジェクトが成功だったかどうかは別として、
「ナノ」が、世界の自動車業界に衝撃を与えたのは事実です。
日本の自動車メーカーは、「あんなのは車じゃない」といいながらも、
「ナノ」を取り寄せて分解し、子細に研究して、
新興国では、先進国のモノづくりが通用しないことを思い知りました。
そして、新興国戦略に出遅れたことを、痛感したのです。
その「ナノ」の衝撃から、6年が経ちました。
日本の自動車メーカーは、幸い、リーマン・ショックの痛手から立ち直り、
世界市場における存在感を維持しています。
「ナノ」は、先進国市場のモノづくりしか知らなかった日本企業が、
発想の転換をするキッカケをつくったといっても、過言ではないと思います。
自動車業界に限らず、日本の電機メーカーも、そのモノづくりに学びました。
「私の履歴書」を読みながら、「ナノ」が日本メーカーに与えた衝撃を、
改めて思い返しました。