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経済ジャーナリスト 片山修 | Osamu Katayama Official Website

片山修のずたぶくろⅡ

経済ジャーナリスト 片山修が、
日々目にする種々雑多なメディアのなかから、
気になる話題をピックアップしてコメントします。

中村さんのノーベル賞「青色LED」の誕生秘話

報道されているように、名城大学教授の赤崎勇さん、名古屋大学教授の天野浩さん、
米カリフォルニア大学の中村修二さんの3人が、2014年のノーベル物理学賞を
受賞しました。
お会いしたことのある、中村さんについて少し触れたいと思います。

中村さんの出身会社の日亜化学工業は、徳島県阿南市にある中小企業です。
なぜ、中村さんは、地方の中小企業の実験室で青色LEDの研究をスタートできたのか。
キーパーソンは、日亜化学工業の創業者、小川信雄さんです。
「青色LEDの開発をやりたいと、会社にいうても、
やらせてもらえるとは思わなかった。
じつに、太っ腹な人です」
中村さんにインタビューした際、当時をそう振り返りました。
小川さんは、青色LEDの開発に、ポンと3億円を出したのです。

私は95年、JR徳島駅から単線に乗り、阿南市にある日亜化学工業に、
その小川信雄さんに会いにいったことがあります。
小川さんは、いかにも創業者然とした、そう、“岩”のようにどっしり構えた人でしたね。

「予算なんか好かん。頭が悪いから、そんなん考えてもでけん。
そんなのをつくりよったら、開発はでけんわ。
20年も前から青色発光の開発は、ガリウムをやれといってやっているだけのこっちゃ」
小川信雄さんは、「開発予算も組まずにやりたいことをやらせるというのは本当ですか」
という私の質問に、そのように答えました。

中村さんは、小川さんの応援のもとに、最先端の結晶をつくる装置を自作し、
たった一人で窒素ガリウム結晶をつくる研究を重ねます。
「これはあかんな。毒で死ぬなと思いました」
と、中村さんはいいました。
身を守るために、宇宙服のようなものを着て、研究をしていたともいっていました。
また、実験では、「月に1度くらいは爆発していた。あれはすごかったですよ。
ドーンという音が部屋中に響き渡って、真っ白で何も見えなくなった」
ともいっていました。
「おーい、中村、生きているのか」と爆発のたびにいわれたそうです。
「やり出したら、のめり込んでしまう。そのことばかりになっちゃうんですね」
と、中村さんは語りました。

その後、小川さんが亡くなり、中村さんは後ろ盾がなくなったのか、
会社とうまくいかず、日亜化学を退社。
米カリフォルニア大学サンタバーバラ校に教授の職を経て渡米しました。
発明の対価をめぐる争いは、日亜化学との訴訟となり、
05年、8億4000万円を受け取ることで和解となりましたが、
企業研究者と会社の関係を問いただした裁判として、記憶に残るところとなりましたよね。

まあ、中村さんも創業者の小川さんも侍でしたね。

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