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経済ジャーナリスト 片山修 | Osamu Katayama Official Website

片山修のずたぶくろⅡ

経済ジャーナリスト 片山修が、
日々目にする種々雑多なメディアのなかから、
気になる話題をピックアップしてコメントします。

自動運転をめぐる我が愚考

先日、トヨタ、日産の自動運転車に試乗する機会があり、自動運転技術はずいぶん進歩したことを実感しました。そう遠くない未来に、実現する技術といっていいと思います。

ただし、技術的な進歩が見えてきたからこそ、自動運転と社会との親和性をいかに築くかという問題が浮上してきます。

どういうことかというと、一般の人には、いまだに「自動運転」に対する誤解があると思うんですね。すなわち、自動運転というと、運転中にドライバーは何もしなくていいと思いがちです。

米国では、テスラ車のオートパイロット機能を使って、ドライバーが走行中に本を読んだり、運転席を離れたりする無謀な動画がネット上にアップされて話題になりました。しかし、現時点で、そんな横着な運転態度は許可されていませんわね。
わかりやすくいえば、自動運転は、ドライバーが必要ない「無人運転」とは違います。
少なくとも、現時点では、自動運転とはいえ、あくまでドライバーがいての自動運転なんです。

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※自動運転で走行中のドライバー

では、ドライバーは、自動運転中は、何をしていたらいいのでしょうか。マンガを読むのでしょうか? 編み物でしょうか? いやいや、そんなことはできません。
ドライバーは、自動運転中であっても、いつでもハンドルを握ることができるよう、つねに周囲に注意しながら、手をハンドルのそばに構えていなければいけません。
ドライバーは、自分では運転しないけれど、注意はしなくてはいけないという、中途半端な状態です。これは、自分で運転するより、かえって疲れそうとも思えるのですが……。

いやいや、自動運転の大義は、ドライバーがラクをすることもさることながら、むしろ交通事故をなくすことだといわれています。
しかし、交通事故をなくすというなら、飲酒運転ができないクルマをつくるのが先だという議論があります。ドライバーの呼気からアルコールを感知すると、エンジンがかからないクルマなど。先だって、ある社の技術者に聞いたところ、技術的には、そう難しいことではないといいましたよ。

ただ、これも、奈良漬を食べて運転ができなかったとか、同乗者が飲酒していただけなのに運転できなかったといったトラブルが発生しそうですわね。

自動運転にしても、飲酒運転ができない車にしても、新しい技術を導入することによって、不便や危険が発生する可能性は十分にあります。あるならば、どのような対策や解決策があるのか。情報を広く公開し、周知して、社会に納得してもらう必要があります。
そうしないと、いわば、社会との折り合いがつきません。

自動運転など新しい技術が、社会に受け入れられるために求められるのが、いわば“社会技術”です。
“社会技術”とは、社会を円滑に運営するための技術です。新しい科学技術と社会制度を組み合わせ、問題を解決するための技術のことです。

自動運転に関する問題は、複雑です。法や経済といった多様な事柄が、複雑に絡み合います。しかも、メーカー、ユーザーだけでなく、道を歩くすべての人、すなわち全国民に関係します。人々の価値観は多様ですから、誰もが折り合える、新しいルールをつくりあげるのは、簡単ではありませんよね。自動運転をめぐる“社会技術”の確立には、高度な知識が要求されます。

つまり、自動運転をめぐるさまざまな意見が出て、議論が重ねられることによって、多分、社会的な一致点が形成されるのではないでしょうか。その成熟したプロセスをしっかりたどる必要があると思いますね。

自動運転技術が描く無事故社会は、確かに素晴らしい。
しかし、物事は、万事、光が濃ければ陰も濃い。自動運転技術の恩恵のウラには、必ず陰の部分があります。
その陰から目を反らさず、各分野が協調して、社会的な解決策を構築することが求められています。

 

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