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経済ジャーナリスト 片山修 | Osamu Katayama Official Website

片山修のずたぶくろⅡ

経済ジャーナリスト 片山修が、
日々目にする種々雑多なメディアのなかから、
気になる話題をピックアップしてコメントします。

自動運転で、将来「走る歓び」はなくなるのか

囲碁の世界でAI(人工知能)が人間を打ち負かしたように、クルマの運転でも、AIを駆使した自動運転ソフトの運転が人間よりうまくなる可能性があります。極端な話、運転操作を機械に任せた方が事故や渋滞の減少につながるという見方もできます。そうなったとき、私たちはクルマを操る楽しさ、走る歓びを手放さなければいけないのか――という話です。

自動運転車を開発する最大の目的は、交通事故の死者数をゼロにすることです。これは、自動車メーカーのほとんどが共通の目的として掲げています。

このほか、地方における高齢者の生活の質の向上、大型トラックなどのドライバーの高齢化、都市における渋滞など、自動運転車にはさまざまな社会課題の解決策となる可能性が指摘されています。

もちろん、一般道路を走るクルマが完全自動運転を実現するには、さまざまな技術課題を克服する必要があります。例えば、高精度の三次元デジタル地図の構築のほか、地図を随時更新するためには、現行の第四世代の100倍の実効速度を実現する5G(第五世代移動通信システム)も必要です。

また、事故被害者の補償制度を用意するなど、法制度の整備も進めなければなりません。

現在の環境のなかに、突然、自動運転車が入ってくることは考えられませんが、しかし、
将来的には、自動運転車は社会のさまざまな場所で使われ、私たちの生活を支える存在になる。自動運転車には、それだけの社会的ニーズがあるということです。

つまり、SF的世界かどうかは別にして、自動運転時代は間違いなくやってくるでしょう。

これまでのクルマは、人が運転することを前提につくられ、運転する楽しさ、乗り心地のよさなどが重視されてきました。しかし、自動運転車が本格的に普及し、ライドシェアなどのサービスが広がると、クルマは人やモノを移動するためのモビリティーサービスに重きが置かれるようになるでしょうね。

クルマは、運転するためのものから移動のための手段になり、移動に関連する付加価値サービスがビジネスの優劣の決め手となります。

そうなったとき、クルマを操る楽しさ、走る歓びはなくなってしまうのか。いやいや、そんなことはないでしょう。ただし、ハンドルを握る楽しさは、より趣味的な世界に入っていくのではないかと思うんですね。

クルマ好きの人のなかには、サーキット走行を趣味にしている人がいます。全国には、F1が開催される国際格式のサーキットから、ローカルレースの舞台になるサーキットまで、大小さまざまなサーキットがあります。そこで、走る歓びを体感する。

いまも、クルマ好きの人の集まりはありますが、将来は、〝自動車クラブ〟とか〝自動車愛好会〟があちこちにでき、走る歓びを極める姿が見られるといったことも考えられるでしょう。

また、人がまとまったお金を使う耐久消費財のうち、もっとも高額なのは住宅ですが、二番目にお金を使うのはクルマだといわれています。もちろん、カーシェアリングの流れのなかで、クルマを持たないという選択肢もありますが、マイカーを所有したいと考える人は、ますます自分の個性にあった、明らかなアイデンティティをもった車を持ちたいと考えるのではないでしょうか。

そうなると、クルマを所有し、自ら運転するのは、超ゼイタクな世界になるかもしれません。

自動運転車が人より上手に運転できる能力があるからといって、人がハンドルを握る楽しさを簡単に捨てられるとは思えません。

逆説的ではありますが、自動運転車が身近なものになればなるほど、ハンドルを握る楽しさ、走る歓びを大事にする人が増えていくのではないでしょうか。

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