「MRJ(ミツビシ・リージョナル・ジェット)」が、飛びましたね。
無事に初飛行に成功しました。
日本の航空史を振り返ると、第二次世界大戦中まで、三菱重工業の「零戦(零式艦上戦闘機)」や、中島飛行機の「隼(一式戦闘機)」、川西航空機の「紫電改」などに代表されるように、世界でも高い技術力を誇っていたことが知られています。
しかし、戦後、GHQ(連合国軍司令部)は、日本が再び軍備できないようにすることを狙って、世にいう「航空禁止令」を発令しました。これによって、日本の航空業界は、「空白の7年間」を余儀なくされました。
日本は、航空機工業、航空輸送事業をはじめ、航空に関するあらゆる活動を行うことを禁じられました。その内容は徹底しており、戦前の航空機に関する資料はすべて没収され、航空機の開発、生産、加工の一切は禁止されました。大学の航空学科すら廃止されたのです。この7年間には、模型飛行機さえ飛ばなかったといわれるほどです。
ただし、空への夢を封じられた日本の技術者たちの多くは、自動車産業や鉄道産業に流れ込みました。戦後のトヨタ、日産、ホンダに代表される自動車産業の発展、新幹線に代表される鉄道産業の発展は、彼らの活躍なくしてあり得なかったことは、よく知られています。
「空白の7年間」は、1952年に終焉しました。
その後、国産航空機として開発、生産されたのが、国策企業の特殊会社日本航空機製造の「YS-11」です。初飛行は、禁止令解除から10年を経た1962年。182機が生産されましたが、1973年に生産を終了しました。赤字だったんですね。
「YS-11」以来、約40年にわたって、日本では、航空機の部品を生産することはあっても、航空機自体は、まったく生産されてきませんでした。
近年、今回初飛行に成功した「MRJ」や、ホンダが独自に米国で開発し、引き渡し直前までこぎつけている「ホンダジェット」など、日本製の航空機が注目を集めています。
今年、ある航空機関係者に取材したとき、こう話していたのが印象的でした。
「第二次大戦中に飛行機をつくっておられた方は、あまりにも痛みのある結末だったもので、飛行機から離れていかれました。でも、それを知らない若い連中は、『やっぱり飛行機は夢がある』って、もう一度、挑んだわけですよ」
大空に飛び立つ航空機には、技術者でなくても、誰もが夢を託したくなります。
大型機の得意な米ボーイングや欧州のエアバス、「MRJ」と同クラスのジェット機を生産するブラジルのエンブラエルやカナダのボンバルディアなど世界の競合と比較して、昔はいざ知らず、日本の航空産業は、今日、圧倒的な経験不足です。
今後、実際に機体が顧客に引き渡されるまでには、認定取得をはじめ、課題が山積しています。軍事に直結する航空機の市場はセンシティブで、独特のむずかしさも指摘されます。
しかし、「MRJ」初飛行によって、日本の空の歴史に、新しい1ページが刻まれました。
まずは、初飛行に成功した。それだけで、元気になる話ではないでしょうか。