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経済ジャーナリスト 片山修 | Osamu Katayama Official Website

片山修のずたぶくろⅡ

経済ジャーナリスト 片山修が、
日々目にする種々雑多なメディアのなかから、
気になる話題をピックアップしてコメントします。

“ブログ”のルーツは、伝統の日記文学にある

ひょっとすると、日本人のソーシャルメディア好きは、
一千年を超える伝統があるのではないでしょうか。

総務省が今年4月に発表した、
「平成25年 情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査」(速報)によると、
日本人の57.1%が、LINEやFacebook、Twitterなどの
ソーシャルメディアを利用している。
年齢別の利用率をみてみると、
40代が約60%、50代が約36%、60代が約14%で、
若年層以外の世代にもソーシャルメディアが普及しつつある。
これらの数字は、日本は全世代をあげて、“ソーシャルメディア大国”への道を
一歩一歩駆け上がっていることを示しているといっていいでしょうね。

その背景には、スマートフォンやタブレットなど、
新たな情報デバイスの普及があるのは間違いありません。
ただし、ハードの充実だけで、
日本人のソーシャルメディア好きを説明するのは難しいのではないでしょうか。
なぜ、これほどまでにブログで日々の記録を発表する人が多いのか。
ネット上でおしゃべりをしたり、
他人のブログを読んだりするのが、なぜあんなに楽しいのか……

愚考するに、こうした感情のねっこは、
日本人の文化的な土壌というか、風土というか、DNAというか、
ソフト面で説明できるのではないでしょうか。
カギは「日記」です。

日本文学研究者のロナルド・キーンさんは、
ドナルド・キーン著作集(新潮社刊)の第二巻
『百代の過客』の序文において、
838年の円仁『入唐求法巡礼行記』から
1854年の川路聖謨『下田日記』に至るまで、
約千年間に記された日本人の日記について分析し、次のように論じています。

「日記というものが、
そうしたもの(小説や随筆 筆者注)に
劣らぬぐらい重要だと思われているのは、
ほかならぬこの日本だけなのである」(同著p11)
「(日本の)文学は、どうしても私的なものとなり、
もっと広い世界に向けて書くというよりは、
少数の仲間内だけで共有される傾向が強かった。
なるほど日本の伝統文学の、
そのような限界を大いに歎くこともできよう。
だが過去の日本の詩人や散文作家が、
その代わりに成就した表現の純正さのことを、
決して忘れてはなるまい」(同p18)

日本人は、自らの思いや旅の記録を書き残してきました。
時代によって、表現方法には違いがありますが、
男性、女性を問わず、身のまわりの出来事を丹念に書きつけることで、
普遍的な思いや感情を語ってきたわけですね。
こうした先人の蓄積のうえに、
私たちの今日のメディア行動があると思います。
私も、このブログを5年以上、ほぼ毎日書き続けています。

キーンさんは、日本人の特徴について、
次のようにもおっしゃっています。

「日本人はいにしえより今日に至るまで、
読者によって知悉する風景を自己自身の目で確かめ、
所の名物を己も口にすることに、
格別の喜びを抱いてきた(中略)
年毎の年中行事であれ、
また先輩歌人に歌われたがゆえに名の出た地への旅であれ、
体験の繰り返しこそ、まことに日本人特有の習癖なのである」(同p422)

なるほど。「食べログ」の点数や批評を見て、ディナーの店を決める。
「フェースブック」上の友達の写真を見て、旅行の行き先を決める。
こうしたメディア行動も、伝統に基づいているといっていいでしょうね。

日本人の行動の本質は、今も昔も
それほど変わっているわけではないということでしょうかね。
つまり、現代のブログは、日本の伝統文学である
「日記」の延長線に位置すると考えられるということですよね。

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