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経済ジャーナリスト 片山修 | Osamu Katayama Official Website

片山修のずたぶくろⅡ

経済ジャーナリスト 片山修が、
日々目にする種々雑多なメディアのなかから、
気になる話題をピックアップしてコメントします。

中流社会を考える

いまや、「一億総中流社会」論も昔の話です。

10月11日付の朝日新聞に出色のインタビュー記事が載っていました。
タイトルは「ポスト1億総中流」。インタビュイーは、
米国ハーバード大学教授で日本近現代史の研究者、アンドルー・ゴードンさんです。

ゴードンさんによると、日本人の「中流意識」は、
経済が成長した50年代から70年代初めにかけて強くなっていきました。
当時は、貧富の差が大きかったにもかかわらず、
大多数の人々が、自分は中流だと考えていた。
少なくとも、一生懸命勉強し、働きさえすれば、
「中流の仲間入りができる」と信じていたと語っていますが、その通りですよね。

教育における能力主義がうまく機能し、
高等教育へのアクセスが完全な平等に近い状況だったこともあり、
中流がある種の“幻想”として機能し、
多くの人々が上昇志向を持つことができたというわけですね。

また、近年、多くの日本人が、中流社会は崩壊し、
格差が広がっていると感じているが、しかし、実態をみるかぎり、
極端な格差が生まれているわけではない、とゴードンさんは語っています。
貧困層が増えているのは事実ですが、世界的にみれば格差は小さい。
日本人は格差を必要以上に意識しすぎているのではないか、とも指摘しています。

もっとも、「中流社会」の崩壊については、
21世紀に入ったころから、日本でもたびたび議論されてきました。

例えば、東京大学教授の佐藤俊樹さんは、
2000年に出版された著書『不平等社会日本―さよなら総中流』において、
高度成長期の日本は努力が報われる社会だったが、
近年は、子の職業や所得水準が、
親のそれによって強く規定されるようになってきた。
親と子の地位の継承性が高まったことで、
中流の可能性が失われつつことを綿密に論証しました。

そのうえで、日本社会は、
「『努力すればナントカなる』社会から、『努力してもしかたがない』社会へ、
そして『努力をする気になれない』社会へ」
の道を辿りつつあると結論付けました。

佐藤さんの議論を振り返ってみればわかるように、
中流社会や格差社会に関するゴードンさんの指摘は、
必ずしも新しいわけではありません。
しかし、それでもゴードンさんのオピニオンは面白く、魅力的だと思います。
なぜでしょうか。

例えば、佐藤さんの分析はとてもシャープで、正しいと思います。
ただ、ないものねだりなんでしょうが、
正しすぎて窮屈というか、
痛いところをつかれっぱなしというか、お先真っ暗というか、
未来を構想しようというモチベーションが湧いてこないんですよね。
一方、ゴードンさんは次のように語ります。
以下、引用してみましょう。

「社会の中で楽観論が失われ、悲観主義がひろがるのは、憂慮すべきことです。
予言の自己成就という言葉がありますが、そういう悲観は、
若い人から挑戦する気概を失わせ、内向きにしてしまいます
(中略)
発想を変える必要があるでしょう。
日本が直面しているのは、低成長の時代に、
人口減少、少子高齢化、さらに環境へ配慮するという制約のもとで、
どうやって社会を維持するのかという問いです
(中略)
この課題を克服できれば、新しい意味で
日本はまたリーダーになれるのではないでしょうか」

格差の拡大をはじめ、日本社会をとりまく環境が
厳しくなっているのは間違いありませんが、
だからといって、お先真っ暗というわけではないでしょう。
しかし、新しい目標を掲げ、若者の積極的なチャレンジを促すことが、
苦境を抜けだすきっかけになるということでしょうか。
楽観的にいえば、人生や社会を悲観しているヒマがあったら、
何も考えず汗をかいてみろ、ということになるでしょうかね。

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