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経済ジャーナリスト 片山修 | Osamu Katayama Official Website

片山修のずたぶくろⅡ

経済ジャーナリスト 片山修が、
日々目にする種々雑多なメディアのなかから、
気になる話題をピックアップしてコメントします。

岩の原葡萄園物語1 ―上越の三つの偶然―

新潟県の古いワイナリーを訪れる機会がありました。以下、5回にわたってリポートをします。題して、「岩の原葡萄園物語」です――。

JR北陸新幹線を上越妙高駅で下車し、クルマで東に向かうこと20分。
頸城平野、さらに日本海を望む妙高山の裾野に、「岩の原葡萄園」はあります。「日本ワインの父」と呼ばれる川上善兵衛さんが、いまから125年前の1890(明治23)年に開設した、歴史的なワイナリーです。

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※岩の原葡萄園の第一号石蔵で樽熟中のワイン

訪れた日はあいにく曇天でしたが、岩の原葡萄園の見晴らし台に立つと、人家や林、田んぼ、畑の続く頸城平野が広がっていました。

近年、「日本ワイン」は、品質が一気に向上して、内外からの関心が高まっています。
2005年に、約80社ほどだった国内の日本ワインの事業者は、15年には180社を超え、17年には200社におよぶといわれています。
そもそも、「日本ワイン」とは、何でしょうか。

日本で販売されているワインは、海外でつくられて輸入された「輸入ワイン」と、海外から輸入したブドウ果汁やワインを使い、日本で製造される「国産ワイン」、そして、原材料のブドウから日本で育てて製造された完全純国産の「日本ワイン」に分けられます。

もっとも、「国産ワイン」と「日本ワイン」の違いについて、国税庁が明確に区別する表示ルールをつくったのは、今年10月末です。TPPによる輸入ワイン価格の下落等を睨み、日本ワインのブランド化を図る目的があるようです。
2003年から開催されてきた日本ワインの全国大会「国産ワインコンクール」は、今年から「日本ワインコンクール」に改称されました。

この「日本ワインコンクール」には、欧州系品種、国内改良等品種など8つの部門があります。今年、国内改良等品種の部門には、128のエントリーがあり、金賞に選ばれたのは三つ、うち二つを、岩の原葡萄園の「ヘリテイジ」と「マスカット・ベーリーA」が受賞しました。なかでも「ヘリテイジ」は、部門最高賞です。

岩の原葡萄園が、上越の地で優れたワインづくりに成功している背景には、三つの大きな「偶然」が重なっています。

一つめは、上越が、古くから日本酒の産地であり、発酵や醸造の技術が発達していたことです。新潟といえば、お米。お米といえば、お酒。発酵、醸造する点は、日本酒もワインも同じですからね。
そもそも、近年、日本産のウイスキーやワインが海外で高く評価されるようになった背景には、もともと、日本酒づくりで根付いていた、日本の高い醸造技術があるという説もありますからね。

懇切丁寧に案内をして下さった岩の原葡萄園社長の棚橋博史さんは、次のようにおっしゃいました。
「上越市だけで、日本酒のメーカーが10以上。味噌屋さんも、立派な老舗が10軒ほどあります。上越の地には、発酵や醸造の技術に関するバックグラウンドがあったんですね」
上越市は、夏は高温多湿、冬は雪によって低温多湿と、発酵に適した気候風土を備えています。これが、ワインにとっても適した環境だったわけです。
現在、上越市は、「発酵のまち上越」というキャッチフレーズで、発酵食品の売り込みに力を入れているんですね。

二つつめの偶然は、「日本ワインの父」である川上善兵衛さんその人が、上越の地に生まれたということです。
善兵衛さんは、1868(明治元)年に、頸城郡北方村(現在の上越市南部)に、大地主の長男として生まれました。若くして父親が亡くなり、七歳のときに六代目「善兵衛」を襲名します。

三つめの偶然は、農芸化学の大家で、発酵、醸造に関する世界的権威である坂口謹一郎さんを輩出したということです。

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※坂口記念館「楽縫庵」

上越の人々は、郷土が輩出した偉人を「謹一郎さん」と、親しみを込めて呼んでいます。日本ワインの父も「善兵衛さん」と呼ぶんですね。ここでも、それに倣います。

ご存知の方は少なくないと思いますが、謹一郎さんは、1897(明治30)年、高田鍋屋町(現在の上越市東本町)に生まれました。東京帝国大学農学部に入学。発酵学を研究して農学博士となります。
戦中は、上越市の高田農業高等学校に、研究していた酵母菌と一緒に疎開するなど、故郷とのつながりを持ち続けていました。
坂口さんは、日本農学賞、日本学士院賞、フランスの農学学士院外国会員に選ばれるなど、多くの功績を残し、「お酒の神様」と呼ばれました。国産ワイン生産のきっかけとなるワイン酵母「OC‐2」の発見など、日本ワインの発展にも大きく貢献しています。

当時の上越周辺は、治水技術が未発達で洪水が多く、「三年一作」といわれるほど稲作が難しい状態でした。そのうえ、冬は豪雪によって仕事がない。したがって、小作人は出稼ぎに出たり、口減らしに娘を売るなど、悲惨な状態だったといいます。
善兵衛さんは、幼心にも、こうした状況に心を痛め、なんとか上越の地の人々が、普通に暮らせるようにする術はないかと考え続けていました。

「善兵衛さんは、どうしたら、この地を豊かにできるかと、必死に考えました。これを起点として、すべてがはじまるんです」
と、棚橋さんは説明します。
「岩の原葡萄園」の原点は、ここにあります。

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