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経済ジャーナリスト 片山修 | Osamu Katayama Official Website

片山修のずたぶくろⅡ

経済ジャーナリスト 片山修が、
日々目にする種々雑多なメディアのなかから、
気になる話題をピックアップしてコメントします。

岩の原葡萄園物語4 ―善兵衛さんの一念発起―

1882(明治15)年当時、上越から東京までは、7泊8日の旅程だったといいます。岩の原葡萄園の創業者の川上善兵衛さんは、15歳のとき、上京を決意し、母親に黙って慶應義塾に入塾しました。
上京後、見聞を広めるために、善兵衛さんがしばしば訪問したのが、赤坂にあった勝海舟さんの私宅。勝海舟さんの祖先は、越後は柏崎の出です。その関係で、善兵衛さんは、おじいさんの代から勝家と親交があった。
善兵衛さんは、勝海舟さんや福沢諭吉さんから多くの刺激や知識を得ていきますが、間もなく、母親に上越に呼び戻されます。

しかし、善兵衛さんは、その後も独自に勉強を続ける。そして、勝海舟さんからのアドバイスを受け、上越の地を豊かにするためには、葡萄酒づくりしかないと思い定めたのです。
「勝海舟さんは、重要な食糧の米は減らせないから、田をつぶさずに、山の荒れ地にでも生えるブドウをつくって、葡萄酒をつくりなさい、と勧めたんですね」
と、岩の原葡萄園社長の棚橋博史さんはいう。

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※善兵衛さんの胸像

一念発起した善兵衛さんは、日本で最初に本格的ワインづくりをしたことで知られる高野正誠さん、土屋龍憲さんらに師事し、ワインづくりを学びます。

そして、1890(明治23)年、ついに、「岩の原葡萄園」を開設します。私財をなげうってワインづくりに邁進するのです。

まず、自宅のお屋敷の立派な庭園を崩し、果樹試験場や葡萄園をつくった。さらに、醸造所を建設。貯蔵庫として石蔵もつくった。さらに、葡萄の苗木を海外から次々と取り寄せました。
それから、「働きたい者は、いつでもきて働けばいい」といって、せっせと人集めをしては、農家の副業として働かせた。採算度外視で、突っ走ったわけですね。
周囲からは、「善兵衛さんは気が狂ったのではないか」と陰口をいわれたそうです。一人目の妻は、10年もしないうちに実家に呼び戻され、離縁してしまいました。

善兵衛さんは、海外から取り寄せた品種を次々と試し、どのブドウが上越の地に合うのか、研究を進めました。
しかし、よく知られるように、ブドウは中近東の原産です。
「シルクロードで中国に広がったほか、欧州やエジプトなどにも広がっていきましたが、雨が少なく乾燥した土地が中心です。日本の、それも海に面した上越のような湿潤な土地でつくるのは、並大抵のことではなかったんです」
と、棚橋さん。

岩の原葡萄園は、およそ地中海気候とはかけ離れた、雪深い上越の地にあります。しかも、ブドウ畑のある斜面は北西向きです。一般的に、ブドウ畑は日当たりのよい南向き。もっとブドウ栽培に向いた土地を探すことは、できたはず。
しかし、善兵衛さんには、「場所を変える」という選択肢はなかった。何より「上越の地を豊かにする」ことが、いちばんの目的だったからです。

岩の原葡萄園を開設してから30年以上が流れました。
経済的にも困窮し、周囲からの冷たい目にさらされながらも、善兵衛さんは、研究を続けます。それでもなお、上越の地でうまく育つブドウの品種にたどりつくことができません。
ただし、この間、善兵衛さんは、着々と研究データを蓄積した。
もはや、執念です。

「善兵衛さんがすごいのは、1922(大正11)年、それまで30年以上続けてきた研究の方針を、ガラリと切り替えたことです」
と、岩の原葡萄園社長の棚橋博史さんはいう。

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※当時のワンづくりの様子

「メンデルの法則」をご存じですよね。高校の生物で習った、あれです。
メンデルは、その研究によって、世の中に「遺伝」の概念をもたらしました。簡単にいえば、遺伝には、優性遺伝と劣性遺伝があり、片親に優性の遺伝子があれば、子どもは優勢になるという「優性遺伝の法則」を見つけ出した。

メンデルが、メンデルの法則を発表したのは1865年ですが、当時は先進的すぎて認められなかった。他の研究者たちによって再発見され、注目されるのは、彼の死後約20年を経た、1900年ごろのことです。
善兵衛さんは、その新しい理論を、1922年に導入し、品種交配の研究を始めたんです。これによって、善兵衛さんの研究は一気に効率化されます。

以下は、橋さんのコメントです。
「この時代に、ヨーロッパでもまだ半信半疑だったような真新しい理論を、日本で取り入れるということは、ものすごいチャレンジなんですよ。
善兵衛さんは、苦節の30年間に、『この品種を母親にすると環境に強い、味がいい』などの関係を、経験によって蓄積していました。それに、メンデルの法則を合わせて、効率的な交雑を行ったわけですね」

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※畑に立つ棚橋さん

善兵衛さんは、じつに10311回にものぼる交雑を行い、日本の風土に合い、良質のワインを生み出す優良品種を22品種、発表します。
そのなかの一つが、1927(昭和2)年に初交雑された「マスカット・ベーリーA」です。

「『マスカット・ベーリーA』は、2013年6月にOIV(国際ブドウ・ワイン機構)に登録され、国際的な品種として認知されるようになりました。日本固有品種としては、10年に登録された『甲州』に次いで2品種目です」
と、棚橋さんはいう。

つまり、「マスカット・ベーリーA」は、カベルネ・ソーヴィニオンやメルロー、シャルドネなどといった品種と同じように、国際的に認知された、いわば「ブランド」として看板をもったということになります。
今日、「マスカット・ベーリーA」は、全国で栽培されています。
善兵衛さんが、「日本ワインの父」といわれる所以なんですね。

しかし、当時、日本人の口にはワインが馴染まなかったこともあり、倉庫には、在庫が溜まる一方でした。経営の概念を持ち合わせず、投資はするわ、人は雇うわの善兵衛さんに、限界が訪れます。
善兵衛さんは、研究を続けたり、ワインを生産することが難しい状況に追い込まれてしまったんです。

 

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