今朝の新聞各紙に、ノーベル物理学賞の受賞が決まった、
中村修二さんの記者会見の記事が掲載されていました。
どこの新聞でしたか、見出しは「けんかしたまま死にたくない」でした。
私は、正直驚きました。
ご存じのとおり、中村さんは、
特許権の帰属や対価の支払いをめぐって、
古巣の日亜化学と長らく泥沼抗争を繰り広げていた。
少し長くなりますが、中村さんの発言を引用してみましょう。
「小川社長と二人でざっくばらんに話し合いたいと思います。
お互いに誤解があった。過去のことを忘れて、将来だけを見て、関係を改善したい」
「けんかしたまま死にたくない……細かいことはいわずに、
お互いに誤解があったから、過去のことは忘れようと。将来だけを見ていこうと」
と繰り返し語っています。
メディアを使って、関係修復を呼びかけた格好です。
「おや」と、多くの人が思ったはずです。
私は、怒りの中村さんが嫌いではありませんが、
中村さんと日亜化学は犬猿の仲というのは常識ですし、
中村さんのノーベル賞受賞後のコメントをみても、
研究の原動力は「怒り」にあるとして、
日亜化学を目の敵にしているようにみえました。
ノーベル賞を受賞するほどの天才ですから、
私なぞには、中村さんの頭の構造はよくわかりませんが、
この変わりようはどうしたのだろうか……
と思った人は少なくなかったはずです。
例えば、ノーベル物理学賞と文化勲章のダブル受賞となれば、
位人臣をきわめたも同然です。
学者として、これ以上の名誉はないといっていいでしょう。
日本、いや、世界を代表する学者としてのお墨付きを得られたのですから、
さすがの中村さんもいろいろと考えるところがあったということでしょうか。
ただ、中村さん自身が「第2の故郷」と呼んでいる、
徳島県への郷土愛から、ノーベル賞を機に
恩返しをしたいという気持ちが強く起こっても、
何ら不思議ではないと思います。
現に、中村さんは、ノーベル賞の賞金4000万円の半分を
母校の徳島大学に寄付すると語っています。
私は、もうずいぶん昔の話ですが、
95年に日亜化学を取材したことがあります。
当時の建物は、古くて田舎の町工場そのものの感じでした。
昭和のニオイのプンプンする田舎の企業でした。
中村さんがノーベル賞をとるキッカケをつくり、
中村さんが恩人という先代社長の故・小川信雄さんも、
それこそ村夫子のような方でした。
私は、2001年に中村さんにお会いしたとき、
次のように語っていたのを思い出しました。
「入社してから20年間、正月の三が日を除き、
休んだことはほとんどありませんでした。
小さい田舎の会社ですから、いつ潰れるかわからない。
当時、開発をやっていたのは僕だけでしたから、
本当に会社のことだけを思って、24時間365日働いたんです」
「つねに考えていたのは、同僚のことです。
田舎の人たちですから、みんな人が好いんです。
彼らのために仕事をするんだ。会社がつぶれたら大変なことになるぞ、
絶対につぶしたら駄目だと考えていたんです」
つまり、中村さんは、私がいうのも何ですが、
首尾一貫していて、じつに一途な人です。
これに対して、日亜化学は4日、中村さんの記者会見を受けて、
次のようなコメントを出しました。
「すでに退職された方で、何かをお願いするような考えは持っておりません」
「貴重な時間を弊社へのあいさつなどに費やすことなく、研究に打ち込まれ、
物理学に大きく貢献する成果を生みだされるよう、お祈りしております」――。
中村さんと日亜化学の間にいかなるイキサツ、確執があったかは知りませんが、
大人気ないというか、かりに根深い恨み辛みがあるにしろ、
公式発表で、ここまで冷たい態度を表明するのは、
正直、どんなものか……と思われた方が少なくないのではないでしょうか。
中村さんは、「現在の小川英治社長がリーダーシップを取り、
日亜化学が世界のリーダーとなって青色LEDの応用を進め、
今回のノーベル賞に至ったと思います」とまでいって、会社をたてています。
それに、中村さんは、記者会見の席上、
「日亜化学と関係が改善できて、共同研究をしたいということになれば、
日米を行ったり来たりすることもあります」とまで話しています。
日亜化学は、中村さんが教授を務める
カリフォルニア大学サンタバーバラ校と協力し、
共同研究を行うチャンスをみすみす逃してしまったのではないか……
日亜化学は、LEDの世界シェアトップかも知れないが、
中村さんの研究があってこその日亜化学でしょう。
私には、小川信雄さんが草葉の陰で泣いているような気がしてなりませんな。