「ややこしいことは、わてらがやりますさかい、善兵衛さんは、好きなだけ研究をしてください」
1934(昭和9)年、借金地獄に陥り、困窮を極めた善兵衛さんのもとに、救世主が現れます。「壽屋(現サントリー)」創業者、鳥井信治郎さんです。
※鳥井信治郎さん
信治郎さんは、1879(明治12)年に生まれ、20歳のときに「鳥井商店(後の壽屋)」を創業しました。そして、日本人の口に合うように、甘味料を入れた赤ワインの「赤玉ポートワイン(現赤玉スイートワイン)」を発売したのは1907年です。「赤玉ポートワイン」は、大ヒットしました。
ただ、ワインの原料を海外から仕入れることで、外貨の流出につながります。さらに、戦況の悪化とともに仕入れが難しくなることなどに、信治郎さんは頭を悩ませていました。
「国産のワインをつくることはできないものか……」
相談に向かったのは、東京帝国大学の「お酒の神様」、坂口謹一郎さんのところです。
「信治郎さんは、酒造りを始めるにあたって、オーソリティに頼りたいという気持ちがあり、最終的に謹一郎先生に全面的に頼ったんですね」
と、岩の原葡萄園社長の棚橋博史さんのコメントです。
謹一郎さんは、じつは、善兵衛さんと姻戚関係にあります。善兵衛さんの三女の夫と、謹一郎さんの奥さんが、同じ家の出身なんですね。
その縁もあって、謹一郎さんは、善兵衛さんの事業を気にかけていました。
そこに、信治郎さんが相談に現れた。謹一郎さんは、いいました。
「ワインづくりは、すなわちブドウづくりです。ブドウづくりにおいて、日本で頼るべきは、川上善兵衛のほかにありません」
鳥井さんは、善兵衛さんの名前を知っていました。坂口さんの紹介を受けて、さっそく会いにいき、意気投合。冒頭の言葉を口にしたというわけですね。
※川上善兵衛記念館入口
棚橋さんは、次のように説明します。
「鳥井さんは、本格的な、ホンモノの国産ワインをつくるために、技術と技術者がいるとわかっていたんです。善兵衛さんは、周囲からは『変わり者扱い』を受けていましたが、鳥井さんは、革新的に新しいことにチャレンジする人が大好きでしたから、応援したんですね」
鳥井さんは、善兵衛さんの抱えていた旧債を弁済し、土地、家屋敷の担保をすべて解き、共同資本で会社を設立。善兵衛さんの研究の援助も引き受けました。経済的に、全面バックアップ体制を敷いたんですね。
この応援もあって、7年後の1941(昭和16)年、善兵衛さんは、「交配による葡萄品種の育成」という論文を書き、民間人としては初めて、「日本農学賞」を受賞します。
サントリー創業者である鳥井信治郎さんは、「やってみなはれ」「おもろいやないか」といった名言が知られています。二代目の佐治敬三さんも含め、サントリーの経営陣は、名経営者とともに、美術館や音楽ホールをつくるなど、「文化人」としても有名ですね。
しかし、じつは、信治郎さんが薬種問屋の丁稚時代に洋酒の知識を得、佐治さんが大阪大学で化学を専攻していることからもわかる通り、彼らは典型的「理系人材」です。技術や技術者に対する強いリスペクトを持ちます。
善兵衛さんの研究に対しても、高い敬意を払い、その価値を認めたからこそ、全面的に応援したのです。
サントリーの企業風土には、いまなお技術者魂が根付いていますが、これは、創業者のDNAが受け継がれているからにほかなりません。
さて、5回にわたって岩の原葡萄園について書きました。
農業には、いま、大きな変化の波が起きようとしています。TPP(環太平洋経済連携協定)の大筋合意などで、今後農水産物の輸出入が活発化すれば、グローバルに競争力を持つ商品をつくらなければ、生き残れません。
品質の高いものをつくることはもちろん、ブランド力を備えることや、コスト削減も欠かせません。
岩の原葡萄園では、農業ITの活用に積極的に取り組んでいます。気温、風速、日照量、降水量などのデータを蓄積しており、今後、病気の流行を予測するなどの活用方法が考えられています。
さらに、木の内部の液体がどう動いているかを調べる「樹液流動」の研究や、ドローンを活用して畑の熱や水をセンシングする技術など、先進技術の導入も検討されています。
現在の岩の原葡萄園は、いま流にいえば、六次産業です。製造、営業、全般的な業務の三部門があり、互いに情報を共有化しながら事業を行っているといいます。
「畑から醸造、瓶詰、販売まで一貫して行っています。農業と販売が同じ事務所にいる。だからこそ情報伝達が早い。これが命だと思っています」
と、棚橋さんは語ります。
いまや、「いいもの」をつくるだけでは、売れません。これは、製造業もワインも同じでしょう。ワインづくりを究めると同時に、いかにブランドを築き、グローバル市場に売り込んでいくか。岩の原葡萄園に戦略が求められるのは、これからですね。